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「亀には亀の世間がある」

f0030644_16221325.jpg 『忘れられた日本人』(岩波文庫)は、“旅する人”宮本常一の真骨頂とも言える作品だ。全国の農産漁村を歩き、名もなき人々に話を聞き書き取った記録である。かつての大らかな性の習俗、したたかな男や女たち、細やかな心遣いやふれあいなど今は失われてしまった日本人の姿が描かれる。盲目の老乞食が自らの数奇な人生を語る「土佐源氏」など、並の小説よりずっと面白いと思う。

 自らの祖父市五郎を描いた章も印象深かった。貧しい暮らしの中働き詰めに働いて、なお神仏への祈りを怠らず、感謝の気持ちを忘れなかったという。楽しみはといえば仕事をしながらの歌。常一が子供のころ、山奥の田のほとりにあった井戸に亀がいて、幼い常一がこの亀を飼いたいと言う。祖父が亀を捕り縄で括ってくれ、家に持って帰ろうとするのだが、常一は途中で亀のことがなんともかわいそうになった。泣きながら亀を持って田へ戻ると、祖父は亀を元の井戸に戻し、「亀には亀の世間があるのだからやはりここにおくのがよかろう」と言うのである。

 この亀が大きくなると、今度はとなりの年寄りが「この中では世間が狭かろう」といって、井戸から出し、そばの谷川に入れてやる。亀はその谷川に居着き、市五郎は亀を見かけるとそのことを必ず常一に話したという。

 苦しい日々の暮らしの中でも、生き物に対するこころ優しさを持っていたのは、市五郎やとなりの年寄りだけではなかったろう。一般の動物にも人間と同じような気持ちで向き合う「その気持ちがわれわれにもまた伝えられて来た」と宮本常一は書いているのだが、残念ながらその気持ちは、いまは断絶してしまったのではあるまいか。
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by greenerworld | 2009-04-02 16:26 | レビュー  

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