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[BOOK]大気を変える錬金術 ハーバー、ボッシュと化学の世紀

[BOOK]大気を変える錬金術 ハーバー、ボッシュと化学の世紀_f0030644_121278.jpgトーマス・ヘイガー著
渡会圭子訳
みすず書房刊
2010年5月20日発行
本体3,400円+税

 人類に最も寄与した科学技術は何だろうか。活版印刷、内燃機関、発電機……。数々の発明がある中で、おそらく多くの科学史家が5本目までに指を折るだろう技術が「ハーバー-ボッシュ法」である。何しろ、現在65億人もいる人類の半分が、この技術のおかげで生きていられるのだから。

 ユダヤ系ドイツ人のフリッツ・ハーバーは、高温・高圧の条件下、触媒を使い、大気中の窒素と水素から高効率でアンモニア(NH3)を取り出すことに成功し、化学会社BASFに持ち込んだ。それを製造レベルの実用的なプロセスにつくりあげたのが、同社の若き技術者であったカール・ボッシュである。

 窒素はアミノ酸や核酸の成分で、生命には欠かせない元素だ。大気の成分の8割は窒素ガスだが、生物はこの安定した窒素ガスを利用することができない。窒素を生物が利用できるように変えられるのは、自然界では根粒菌のようなバクテリアと稲妻(雷)だけだ。それでは増え続ける人口を養うには、限界がある。19世紀から20世紀初頭にかけて、窒素肥料の原料となる硝石(KNO3)やチリ硝石(NaNO3)は、食糧増産にとって欠かせない肥料として各国の奪い合いになっていた。しかも硝石にはもう一つ重要な役割があった。弾薬の原料として、つまり戦争に硝石は欠かせないのである。

 第一次世界大戦前のドイツ帝国では、急増する人口と膨張する軍事力の両方を支えるには、大量の硝石が必要であったが、それはほぼ100%海外からの輸入に頼っていた。当時イギリスの海軍は世界最強であり、海上を封鎖されればドイツは肥料と火薬の原料を断たれ、惨めにひれ伏すしかなかった。それを避けるには、窒素を自給することである。空気から硝酸をつくること──稲妻がもたらす恵み──には、当時アーク放電という技術がすでに確立されていた。これは人工的に稲妻を起こすようなもので、当然、多くの電気エネルギーを使う。この製造技術は、水力の豊富なノルウェーのような国でなければ成り立たなかった。

 これに対して、ハーバーの考えた方法は、高温・高圧に耐える大型の製造装置さえつくることができれば、かなりの高効率(チリ硝石よりも安い値段)でアンモニアを製造できる。アンモニアは硫安(硫酸アンモニウム)や塩安(塩酸アンモニウム)の形で肥料となる。

 しかし、そのような巨大な製造装置は誰もつくったことがなかった。アンモニアの量産にとってはむしろボッシュの果たした役割の方が重要で、ボッシュがいなければ、ハーバーの技術はけっして実用化されなかっただろう。彼は多くの技術者と資金を注ぎ込み、工業プロセスを完成させる。今からほぼ100年前の1911年、BASFの仮設工場から、大気中の窒素を原料としたアンモニアが生産され、その2年後には本格的な肥料工場が稼働した。同時に彼は高圧化学という新しいジャンルを切り開いた。

 第一次世界大戦では、大量の弾薬が使われた。その原料となるチリ硝石の需要もうなぎ上りだった。ハーバーはアンモニアから爆薬の原料となる硝酸をつくる技術の開発をBASFに持ちかけ、ボッシュはそれに応えた。BASFはアンモニアからチリ硝石を合成し、それをドイツ軍に供給する。人類を養うための技術が、戦争のために転用されたのである。しかしそのお陰でBASFやボッシュの地位は揺るぎないものになる。

 ハーバーはユダヤ人だが、ドイツ人として生きようとした。当時ユダヤ人はあくまで二級国民と見なされていた。ハーバーはキリスト教に改宗し、さらに第一次世界大戦では、自ら仕立てた軍服に身を固め、皇帝のために働いた。彼は皇帝の名を冠した研究所の所長となり、ドイツ軍に毒ガスの使用を進言しその作戦指揮まで行った。やはり化学者であった妻のクララは、夫の軍用銃で自らの命を絶った。

 ハーバーは敗戦によって、戦争犯罪人となりかねなかったが、幸いそれは免れた。しかも、人類に貢献した技術としてノーベル化学賞まで受賞する。しかしヒトラーの登場ですべてが暗転した。ユダヤ人は公職から追放され、ハーバーも金と名誉のすべてを失い、イギリスに亡命する。ほどなく渡航先のスイスで失意のうちにこの世を去った。

 一方、ボッシュは、高圧法を使って石炭を原料にメタノールや合成ガソリンの製造に乗り出す。フォードのT型をきっかっけに、アメリカはモータリゼーションに沸いていた。その燃料となる石油はすぐにでも枯渇しそうだった。ところが、1920年代末アメリカでは次々と新しい巨大油田が発見される。彼らの計画は完全に行き詰まったかに見えたが、国の支援を得ることで何とか乗り切った。彼の合成ガソリンはナチスの戦争遂行を支えることになった。
 ボッシュは、BASFやヘキスト、バイエルを統合させた国策会社のトップについた。ヒトラーは合成ガソリンを必要としていたし、ボッシュは会社の発展を望んでいた。しかし彼は、ナチスに批判的だった。要注意人物と見られ経営の実権を失った。ほしいものを手に入れたヒトラーにはもはやボッシュは不要だった。

 ボッシュが心血を注いで育てたロイナ工場は、軍需工場として連合軍の空爆の標的となった。都市ほどの巨大な工場に大量の爆弾が降り注ぎ、破壊された。しかしボッシュはその結末を見る前に死んだ。

 冒頭、人類の半分がこの技術のおかげで生きていられると書いたが、ハーバー・ボッシュ法のおかげで地球上の人口が65億人にまで増えることができたと言い換えてもいい。しかしそれによって、人類は他の生物を追いやり、過剰な窒素が環境を汚染している。そしてハーバー・ボッシュ法にも限界がある。それは製造プロセスに化石エネルギーを消費していることだ。いまエネルギー価格の安い国でハーバー・ボッシュ法により、大気から窒素肥料がつくられている。その燃料は主に石炭である。石炭もいずれは枯渇する。いずれは貴重な化石資源をエネルギーに使うのか、肥料に使うのかという選択を人類は強いられるだろう。

 もう一つ、たしかに科学技術自体はニュートラルなのかもしれないが、それを使う人間によっていかようにでも応用される。このバーバー-ボッシュ法しかり、原子力もまたしかり。自動車技術も戦争に活用された。ほんとうに平和のための科学技術とは、あり得ないものなのだろうか。

by greenerworld | 2010-06-11 12:12 | レビュー  

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