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江戸は理想の循環社会だったか?

 08年度版の「環境・循環型社会白書」が江戸時代の社会システムを「循環型社会」として絶賛しているそうだ。特に「肥だめ」。よく知られるように、江戸の周辺の武蔵野と呼ばれる地域は、畑作地帯で麦や豆、野菜を作って江戸に供給していた。そして、江戸に作物を売りに行く帰りに屎尿を運び、肥料として畑に戻していたとされている。たしかに、こうして屎尿を肥料として使い回していたシステムは合理的だと思うが、それだけで江戸の農業が成り立っていたわけではない。

 そもそも武蔵野の台地は水に乏しく、かつては広大な採草地(まぐさ場)だった。その草(ススキなど)を緑肥として少ない農地にすき込み、肥やしていたのだ。これを刈敷という。

 江戸の人口が増え、食糧が足りなくなって新田開発を進めると、こうしたまぐさ場が農地に換えられた。当然肥料が足りなくなった。そこで武蔵野の新田(といっても多くは畑)地帯はコナラなどの落葉広葉樹を植え、そこから得られる落ち葉や枝条を肥料としてすき込むシステムを採用した。これが武蔵野の雑木林の起源。だから、江戸初期より前には、武蔵野の雑木林は存在しない。あるのは、茫漠たるススキの原だった。

 武蔵野はもともとあまり肥えた土地ではない。落ち葉をすき込んだだけでは、生産力は維持できなかっただろう。下肥はそれを補ったが、しかし、畑の地力を保つにはそれでも足りなかった。

 一方、雑木林はもう一つ大事なものを提供してくれた。燃料である。農民は柴(小枝や潅木)を自給用に使い、太い薪は売り、金に換えた。当時日本橋あたりには肥料問屋があって、ここでは干鰯(ほしか)、油かすなどの肥料を売っていた。これらの販売される肥料を総称して金肥と呼ぶ。農民は薪を売った金で金肥を購い、畑に投入していたのだ。実は江戸の農業を支えたのは、この金肥なのである。

 干鰯は外房でとれるイワシが原料、菜種かすは西国の菜種の産地から運ばれてきたという。いずれも江戸圏内の循環資源ではない。しかも、江戸末期にはイワシがとれなくなり、蝦夷(北海道)のニシンが代わりに使われるようになった。これが蝦夷地進出の一因ともなった。つまり江戸末期には、農業生産は肥料資源不足で行き詰まっていたともいえる。明治になって化成肥料が入って来たとき、それを金肥として受け入れる下地はできていたのではないか。

 江戸時代のシステムは、当時の条件の中では合理的にできあがっていたと思う。そこには祖先が少しずつ積み上げてきた英知を感じるし、見習うべきものは多々あるけれども、それだけで回っていたわけではない。そもそも、江戸時代が完成した循環型社会だったとしたら、もっともっと長く続いただろう。しかしその間に人口は停滞し、大多数の国民は支配層に搾取され、移動の自由もなく、食うや食わずの生活を強いられ、大飢饉が何度も襲っている。言ってみればいまの北朝鮮みたいなものだ(もっとも同時期のヨーロッパも頻繁に飢饉に見舞われているので、日本だけがやり方がまずかったわけではないと思う)。それが破綻して明治維新を迎えたわけである。もちろんそれは政治経済システムの問題でもあるが、生産システムに関しても持続可能とは言えなかっただろう。その時々の体制・環境制約の中で、経済的に合理的なやり方をしていたということなのではないのか。何が何でも江戸礼賛というのはおかしい気がするね。
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by greenerworld | 2008-06-03 21:19 | 環境エネルギー政策  

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