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カテゴリ:3.11後の世界( 38 )

 

全村避難から5年目を迎えた飯舘村

 5年前の福島第一原発事故で、一部を除いて30キロ圏外でありながら、大きな放射能汚染を受けてしまった福島県飯舘村。3月15日に2号機から大量に放出された放射性物質は低く漂いながら北西に向かい、折から降った雨や雪にたたき落とされて約6200人が暮らす豊かな土地を高濃度に汚染した。そればかりか村民は「30キロ圏外」ということで長く留め置かれることになった。ブログ氏が京都大学原子炉実験所の今中哲二助教らと村に調査に入ったのは、3月28・29日だったが、専門家の今中氏らが驚愕するほどの汚染の中で普通に暮らしている人がいたことが、さらなる驚きだった。

 深刻な汚染を明らかにしたその調査報告が公表されたあと、4月11日にようやく国は「計画的避難区域」という形で避難準備をするよう村に通告した。実際に計画的避難区域に指定されたのは4月下旬、避難が完了したのは仮設住宅が完成する夏になってからである。40代以下の世代は先にアパートなどを探して避難し、仮設住宅に移ったのはその親の世代が多かった。事故前の飯舘村では三世代、四世代がともに暮らす大家族が多かったが、約1700だった世帯数は避難後3100以上に増え、家族はバラバラになった。

 それから5年、仮設住宅にはポツリポツリと空き部屋が目に付くようになった。帰村の思いが叶わぬまま亡くなった人も少なくない。一方で、新たな住まいを見つけて住み替えた人もいる。日大の糸長研究室の最近の調査では、約4分の1が村外に住宅を取得したと推計している。避難生活が長引く中、故郷を離れることを決意したその胸中はいかばかりだろうか。
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 帰還に向けた大規模な除染作業は終盤に差しかかっている。最盛期は村民を上回る7000人ともいわれる除染作業員が村に入り、村内に通じる県道12号線は朝晩渋滞した。住居とその周りの除染はほぼ完了し、農地の除染が続く。それでも、放射線量の低減率はせいぜい半分程度、4分の3を占める山林の汚染は手つかずだ。汚染土を詰めた大量のフレコンバッグは「仮仮置き場」に積み上げられ、たまに帰宅する村民を圧倒する。除染土は大熊・双葉両町に建設が予定されている「中間貯蔵施設」に持ち込まれるはずだが、その用地取得は遅々として進まず完成はいつになるかわからない。一時保管場所である村内の仮置き場も不足し、このままでは「仮仮置き場」に延々と置き続けられるのではと危ぶまれる。「あの黒い山を見るたびげんなりする」と村民は言う。フレコンバッグの耐用年数は公称5年、もうかなり傷んでいることだろう。

 国は来春、帰還困難区域の長泥地区を除く村内の避難指示を解除する予定だ。村も最近になって、避難指示解除の要望書を国に提出した。それに合わせて村の復興準備は急ピッチで進む。しかしそれは「ハコモノ」中心で、果たして本当に復興に資するものなのか、その維持管理が村の将来を圧迫しないか心配でならない。村では昨年村外にある仮設の村立幼稚園・小中学校を、17年4月から村内で再開する計画を発表した。しかし保護者らの再開延長を求める声は大きかった。それに対して村は頑として聞き入れなかったが、3月になって再開の一年延長を発表した。しかしその理由は、「(現在の飯舘中学校に集約する)改修が間に合わないため」というもので、保護者の声に配慮したという言葉はなかった。

 再開したとしても、アンケートからは村に帰還して子どもを学校に通わせるという保護者はごくわずかである。今回の学校再開に関する村の対応は、むしろ保護者や子どもたちの心を村から遠ざける結果になったのではないだろうか。

 15年暮れに行われた復興庁のアンケートでは、将来的な希望も含め帰村意思のある村民は32.8%いるが、避難指示解除で先行する川内村や楢葉町の例を考えれば、避難指示解除後しばらくは村に戻る人はわずかだろう。しかもアンケートの回答率は5割に満たず、回答者の79%は50歳以上である。アンケートに答えていない若い世代のことを考えると、帰村意志のある村民の比率はもっと低くなるだろう。その一方で、賠償が打ち切られれば村に帰らざるを得ない村民も少なくない。その多くは高齢者だが、彼らが帰るところはかつての飯舘村ではない。家族とも離れ、隣近所にも人影が少ない。子どもの声もしない。買い物も通院もままならないのである。「棄民」という言葉が頭の中に響いて離れない。
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by greenerworld | 2016-04-23 16:42 | 3.11後の世界  

この震災で川内原発を止めないこの国の狂気

 2014年8月18日付日本経済新聞(Web版)に「原発事故時の住民避難『九州新幹線活用を』 薩摩川内市長」という見出しの記事があり、中に次のような一節がある。

 「鹿児島県薩摩川内市の岩切秀雄市長は18日の記者会見で、九州電力川内原子力発電所(同市)で再稼働後に重大事故が発生した場合、住民避難のために九州新幹線を利用できるよう、九州旅客鉄道(JR九州)に、鹿児島県と共同で協定締結を申し入れる考えを明らかにした。

 市長は「住民を大量に速く(安全な場所に)運べるというメリットがある」と強調した。(後略)」

 九州電力川内原子力発電所(川内原発)の地元、薩摩川内市の岩切市長は原発推進派で12年4月の市長選挙で再選された。川内原発は、13年に原子力規制庁に新規制基準に適合していると認められ、15年8月に1号機が、同9月に2号機が、新基準下で初めて再稼働した。

 その8カ月後の16年4月14日夜、熊本県中部を強い地震が襲った。さらに16日未明には本震と見られるマグニチュード7.3の地震が起きた。この地震で48名が犠牲になり(4月20日現在)、多くの人が住家を失い避難生活を余儀なくされている。その中で亡くなられた方もいる。まことに痛ましい。

 最初の地震により、九州新幹線の回送車両が熊本駅近くで脱線した。高架橋や防音壁の亀裂、崩落なども150か所以上見つかった。レールの異常や枕木の破壊もあった。地震のあった区間での運転再開までは相当な時間を必要としそうだ。もし、川内原発で事故が発生していれば、新幹線で逃げることも敵わなかったわけである。新幹線ばかりか、九州自動車道もあちこちで道路の亀裂や崩壊、跨線橋の崩落が起こって通行止めだ。いずれも事故につながらなかったのがせめてもの幸いであった。

 もちろん一般道も亀裂が入ったり崩落したり、瓦礫が道路をふさいだりして通行できない場所がたくさんある。今回の熊本地震では、あらためて、震災による交通インフラの寸断が明らかになった。その中で原発が事故を起こす複合災害となれば、新幹線で避難どころか、立てた避難計画そのものが画に描いた餅になろう。地震で家屋は損傷を受けたうえ余震が頻発すれば、屋内退避もできず、放射能から身を守ることもできない。

 もし平時の事故であっても、30km圏外の住民が避難せずに自宅に留まるという想定がそもそも甘すぎる。福島原発事故では放射能が数百km離れた首都圏や長野県、静岡県にまで到達した。高濃度に汚染されて計画的避難区域に指定された飯舘村は、ほとんどが30km圏外だ。それを知っている以上、事故が起きたら30km圏外でも、たとえ100km離れていても、我れ先に避難を始めるだろう。そのために渋滞が発生し、肝心の30km圏内の住民は身動きが取れなくなる。そのために憲法を改正して、戒厳令を発令できるようにしようというのだろうか。

 震災と原発事故が重なる複合災害が、どれほどの二次被害を地域住民にもたらすか、われわれは東日本大震災で大きな犠牲とともに学んだはずである。それを無視するかのように、いやまるでなかったかのように、原発の再稼働に突き進むのは、いったいなぜなのか。

 熊本地震の震源となった2つの活断層で余震域が広がる中、その断層の先にある川内原発は稼働したままである。少なくとも余震が収まるまで運転停止を求める声が高まる中、原子力規制委員会の田中俊一委員長は、「不確実性があることも踏まえて評価しており、想定外の事故が起きるとは判断していない」(4月18日・NHKニュース)と述べ、運転停止を否定した。さらに、4月20日には、運転開始から40年を超えた関西電力高浜原子力発電所1号機、2号機の安全対策に関する申請に、新規制基準下で初めて許可を与えた。原発の運転期間は40年が原則だが、このままでは例外が原則になりそうだ。

 田中委員長は、福島第一原発事故後に「除染して住民を帰還させる」という流れをつくった人物の一人だ。彼は事故後にNPO法人放射線安全フォーラム副理事長という身分で福島県飯舘村に入り、中途半端な除染実験を行って除染土は「谷ひとつ埋めればいい」と言い放った。その後原子力委員会で除染の必要性を訴えている。このとき「この状況のままで今後の原子力の再生は絶望的だ。とにかく何らかのかたちで除染をきちっと行い避難住民が帰ってこられる状況を作り出さない限りはこれからの原子力発電政策はどう進めていいかわからない」と発言している。つまり、除染は原子力産業の延命のために行うのだという話である。「住民が復帰して生活できる条件は、年間被曝線量が20mSv以下になること」と述べていることにも注目してほしい。

 これらの言動を見る限り、少なくとも田中委員長は原子力を3.11前に戻したいと考えている側の人間である。それが原子力を「規制」する側のトップの座に座っているのだ。

 避難に新幹線を使えばいいと馬鹿げたことを平然と述べた薩摩川内市長といい、再稼動後に「免震重要棟」の新設計画を撤回した九州電力といい、そもそも震災と原発事故を舐めている。そして原子力利権がこの国にいかに深く根づいているかを、そして彼らがそれをおいそれと手放すつもりがないことを、あらためて思わざるを得ない。これではいつかまたフクシマは繰り返されるだろう。


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by greenerworld | 2016-04-22 09:09 | 3.11後の世界  

風が吹けばセシウムが飛んでくる

昨日(2014年7月14日)の二つのニュース。

1)昨年8月19日のフクイチ3号機がれき撤去で、北西方面に放射性物質が(粉塵とともに)流れた結果、南相馬市でイネを汚染した。吸い上げたのではなく、直接降りかかったようだ。もちろん、検出された場所だけがたまたま汚染されたのではなく、この方向に広く放射性物質を含む粉塵が漂っていたはずだ。飛散量は最大で4兆ベクレル、南相馬市では0.04ベクレル/cm2が沈着したという。数字の出し方も姑息で、㎡あたりにすれば400ベクレルだ。

 朝日新聞「がれき撤去で飛散、コメ汚染 福島第一の20キロ先」
 http://www.asahi.com/articles/ASG7F4JF9G7FUUPI005.html?iref=comtop_6_02
 毎日新聞「福島第1:放出量は最大4兆ベクレル がれき撤去で東電」
 http://mainichi.jp/select/news/20140715k0000m040129000c.html

 実は昨年の8月12〜18日は飯舘村に滞在して、ヒアリングなどを実施していた。8月17日にはフクイチから2〜3kmの双葉町の海側まで入った。これがもし2日後だったら、何も知らずにセシウムをたっぷり吸い込んでいただろう(いやその日でも十分に吸い込んだかもしれない)。

 問題はこういった重要なことが、住民には何も知らされずに実施されていることだ。事後にも全く知らせない。東電だけではない。東電に指摘した農水省も、報告を受けた福島県も黙んまりを決め込んだ。隠蔽体質は全く改まらないまま、事故は収束、除染が完了したら早くお戻りください、という。欺瞞そのもの。

2)漫画『美味しんぼ』で議論になった福島の「鼻血」問題。東神戸診療所の郷地秀夫所長が「放射性物質が結合した金属粒子が鼻の粘膜に付着し、内部被曝を起こした可能性がある」と学会で発表、鼻血よりむしろ内部被曝に警鐘を鳴らした。

 神戸新聞「福島の鼻血『内部被ばくか』 神戸の医師、学会で発表」
 http://www.kobe-np.co.jp/news/iryou/201407/0007142183.shtml

 もちろんこれも仮説であり、これで鼻血問題に決着がついたわけではないが、内部被曝でいうと、セシウム粉塵の飛散問題はこれからも続く。フクイチからばかりではない。今年三月に飯舘村の線量調査に入り、雪のセシウム含有量を調べたところ、道路から近い場所、交通量の多い場所ほど高かった。間違いなく車がセシウムを含む粉塵をまき散らしているのだ。いま除染作業が進みトラックが行き交う汚染地には、セシウム粉塵が飛び交っている。量が多ければ、気象条件によっては相当遠くまで飛んでいくだろう。家々の屋根や壁にまた吹き積もる。動物も吸い込む。人がいれば人も吸い込む。鼻の粘膜にくっついて内部被曝をもたらすかもしれない。

 除染が完了しても、それは生活圏のまわりのわずかでしかなく、風が吹くたびにセシウム(を含む粉塵)はまたどこからか飛んでくるのだ。もちろん、フクイチからも。国や県は、「線量が下がったら」そこに戻れというのである。
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by greenerworld | 2014-07-15 10:26 | 3.11後の世界  

Villagers deprived of their lives and livelihood by the Fukushima nuclear disaster

The following is the summary of my presentation at the International Symposium on 12 Dec. 2013 at Slavic Research Center, Hokkaido University, about the situation of Iitate village after evacuation. Share freely.

Villagers deprived of their lives and livelihood by the Fukushima nuclear disaster
─From the viewpoint of social capital and sustainability

OZAWA, Shoji

IItate village is situated north of Tokyo, and 30-50 km northwest of Fukushima Dai-ichi nuclear power plant (NPP). Its’ key industries are agriculture, stockbeef and dairy farming.

I was involved with the village before the accident as an energy consultant.
The village was focused on the collection of woody biomass and planned to utilize it as a self-sufficient heat source. Until the 1950's villagers had been making charcoal from local trees and shipping it to the city. It was the main business in winter.
In the 1960s' the "fuel revolution" changed life and commerce in the village. As charcoal was no longer used, the villagers lost their source of income, and they began to leave their homes to search for work outside of the village in winter. The population of the village decreased gradually thereafter.

Under the banner of "Madei Life", the villagers determined to create a small but beautiful village in which people could live happily and sustainably. "Madei" means conscientiousness in the local dialect.

Iitate village was heavily contaminated with radioactive substances such as cesium-137 and 134 by the Fukushima Dai-ichi NPP accident, following the Great Tohoku Earthquake and Tsunami, on 11 Mar. 2011.
The main contamination seemingly occurred on 15 Mar. after the 2nd reactor cracked that morning. The northwest wind blew clouds of radioactive substances over the village. It fell to the ground as rain and snow during the night.

The government knew about this but the villagers were not informed of the situation until April. Many villagers continued to stay in their homes after that.
It wasn’t until July that almost all the villagers were finally evacuated.

A recent survey revealed that the villagers were exposed to an initial external dose of 7.0 mili grey per capita on average, with the highest being 23.6.

The population of the village was about 6200 and the number of households was about 1700 before the accident. The number of households almost doubled after evacuation, because the elderly lived in temporary housing, and the younger generation lived in apartments or single houses. Households were divided.

The Tohoku region, the northern part of Japan's main island of Honshu, is often subjected to cold weather in summer. It brings poor harvest and famines. Iitate is no exception. According to records, the population of the village was halved by the great famine in the 18th century.

Some traditional food of Iitate is related to the history of famine. Shimimochi, frozen and dried rice cake is of course a source of emergency provisions as well. Miso, seasoning made of rice, barley and soy beans with salt, is also an emergency food source. Both are now examples of Iitate's local specialties.

Villagers gather Sansai, shoots or young leaves of wild plants in spring, and hunt wild mushrooms in autumn. These were used as substitutes for rice or vegetables in times of famine.

Gathering Sansai and hunting mushrooms have become fun activities for the villagers in recent years.
They gather them not just for themselves, but also to share them with neighbors and relatives, as gifts from nature. Their value is not monetary; rather they serve as social capital to build and lubricate relationships.

Sansai and mushroom experts had been eagerly waiting for the season this year, but they are highly contaminated by radioactive cesium. They cannot be eaten, but TEPCO, the Tokyo Electric Power Company, which operated Fukushima Dai-ichi NPP, will not compensate the villagers for them, because they have no monetary value.

Young villagers are considering leaving the village, while some of the elderly are eager to return. But when they do return home, their lives will not be the same as before. They will have to take care of themselves without the help of the young, buy everything they need thereafter. And contamination of Sansai and mushrooms will last for many years to come.

Lives, livelihood, local culture and communities in harmony with nature were broken.
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by greenerworld | 2013-12-17 10:58 | 3.11後の世界  

2年目の3月15日

 2年前の3月15日早朝、福島第一原発2号機の格納容器が破壊され、おそらくこの一連の事故で最大の放射性物質が放出されました。前夜から断続的に2号機からの放出は続いており、未明から朝にかけて、いわき、茨城、千葉、そして東京や横浜へと高濃度の放射性プルーム(死の灰の雲)が向かいました。新宿では9時過ぎに、東京日野では10時頃から、線量値が急上昇しました。
しかし、その時間帯に東京は雨が降っていませんでした。風向きは昼になると反転、東南から南の風になり、プルームは北上していきました。新たに放出されたプルームも福島第一から北西に向かいました。そのプルームが飯舘村に届いた頃、夕方から夜に掛けて、福島県の東北部では雨そして雪が降りました。

 プルームが最初南〜南西に向かったということは、その方向に低気圧があったということです。でもあまり発達せず雨にはなりませんでした。その後新潟方面に別の低気圧ができ、それが徐々に発達しながら東進し、そこにプルームが向かいました。もしあの日の午前中、首都圏に雨が降っていれば、現在の風景はおそらくずっと違ったものになっていたでしょう。「ゴーストタウン」になっていたのは、東京だったかもしれません。東京が汚染されなかったのは、ほんの偶然に過ぎません。

 写真は2011年3月15日、23時の福島県の雨雲レーダーです。
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by greenerworld | 2013-03-15 10:09 | 3.11後の世界  

「革新的エネルギー・環境戦略」は初めから破綻

●10年も先送り

 野田政権が決めたエネルギー・環境戦略がデタラメだ。まずそもそも国民的議論に示した将来の原発比率は2030年時点。そこで、ゼロか15%か25%かの3つのシナリオを国民に問うたのだった*1。それなのに、9月14日発表の『革新的エネルギー・環境戦略』*2(以下『戦略』)では「2030年代に原発稼働をゼロにする」と置き換えられてしまった。2039「年度」までと考えれば10年も先送りされたわけである。『戦略』では「これまでの多様な国民的議論を踏まえ」としながら、この変更について説明は全くない。

*1: http://www.npu.go.jp/policy/policy09/pdf/20120629/20120629_1.pdf
*2: http://www.npu.go.jp/policy/policy09/pdf/20120914/20120914_1.pdf

●3つの原則と建設中の原発の取り扱い

 『戦略』では、原発に依存しない社会の実現に向けた3つの原則を掲げる。

 1)40年運転制限制を厳格に適用する
 2)原子力規制委員会の安全確認を得たもののみ、再稼動とする
 3)原発の新設・増設は行わない

 ところが早くもほころびが現れた。枝野経産相が、三村青森県知事に対して建設中の原発については継続を容認すると発言したからだ*3。現在建設中の原発はJパワーの大間原発(進捗率37.6%)、中国電力島根3号機(同93.6%)、東京電力東通1号機(同9.7%)がある。ただし東日本大震災以後工事は中断している。

 原発の建設には通常7〜10年かかる。完成が間近い島根3号機(計画では運転開始は今年春)があと数年で稼働できたとして、40年後の2050年代半ばまで運転できる。東京電力東通1号機(2011年1月着工)については、枝野大臣は賠償問題などから「当面の建設再開を否定した」(河北新報*4)というが、今後の再開含みだ。もし工事再開したとすると、早くて2020年代の運転開始だろう。そうしたら2060年代まで運転できることになる。さて、30年代に原発稼働をゼロにするには、20〜25年程度で運転停止しなければならないが、どうするつもりなのか? 採算が合わないでしょうから諦めてくださいと言うつもりか。

*3: http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2012091502000239.html
*4: http://www.kahoku.co.jp/news/2012/09/20120916t21024.htm

●核燃サイクルと再稼動

 高速増殖炉「もんじゅ」については研究を終了するとした。高速増殖炉はどだい画餅であり、これは評価しよう。しかし、つまり核燃料サイクルは諦めたということではないらしい。使用済み核燃料の再処理は続けるというからだ。使用済み燃料からプルトニウムを取り出し、ウラン燃料との混合燃料(MOX)として軽水炉で使用する(プルサーマル)ということだ。しかし、リサイクルとは名ばかりで節約できる量はわずか、そのために再処理過程で大量の死の灰を環境中にまき散らし、危険を冒す必要があるのか。第一、六ヶ所の再処理工場はトラブル続きでまだ稼働できないでいる。六ヶ所がうまく稼働できるようになったとしても、今後原発が減っていくにもかかわらず再処理を進めると、プルトニウムはどんどん余っていくことになるのだが。

 実は『戦略』は再処理について触れていない。「直接処分の研究に着手する」とあり、しかももんじゅの研究は終了するので、核燃サイクルは変更し、再処理も中止するとしか読めない。しかし、青森県は、核燃サイクルが撤回されるなら海外から返還される放射性廃棄物(ガラス固化体)の県内搬入を拒否、すでに運び込まれた使用済み核燃料の各原発への返還を検討すると報道された*5。六ヶ所村議会は村内貯蔵の使用済み核燃料搬出を国に求める意見書を採択し、野田総理に送付した*6。こうした青森県からの反発を受けて、政府は原案修正を迫られ9月10日にに予定されていた『戦略』の公表は14日にずれ込んだのだ*7。急遽入れたのであろう県への配慮のにじみ出た文章が「核燃料サイクル政策」の項の冒頭にある。

*5: http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120904-OYT1T01647.htm
*6: http://www.47news.jp/CN/201209/CN2012090701001609.html
*7: http://www.47news.jp/CN/201209/CN2012091301000976.html

 現在すでに、各原子力発電所の使用済み核燃料プールには使用済燃料が溜まり続け、空き容量が少なくなっている*8。もしこれらの使用済み核燃料が返還されて各原発の使用済燃料プールに戻されたら、1〜2年でプールは満杯になり原発がそれ以上稼働できなくなるところが出てくる。戻されなくても、青森県に運び込めなければ、最短で2.3年(柏崎・刈羽)、最長でも13.1年で使用済燃料プールは満杯になる。その青森の方でももう保管の余裕がない。

*8: http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4110.html

 あれだけ莫大な予算をかけ失敗に失敗を重ね、深刻な事故まで起こしてなお核燃サイクルにしがみついてきたのは、ただ「最終処分問題を先送りにするため」の方便でしかなかったとも言える。それを変更するのだから、最終処分(言わばトイレの建設)は待ったなしで、「研究に着手する」なんて悠長な段階ではない。しかし、核燃サイクルをやめると言ったとたんすべて破綻するため、でも再処理は続けますと言わざるを得なくなったというわけだ。ただしこれは自民党政権と原子力ムラの責任が大きいのであって、民主党や野田政権の責任とばかりは言えない。

 考えてみるに、すでにこの政権はレームダック状態。遅くとも10か月以内には総選挙になる(任期満了は来年8月だが、7月に参議院選挙があるため、遅くても衆参同時選挙だろう)。「近いうち」の約束は反故にするつもりだろうが、先は長くない。あとは次の政権が決めてくれという、責任放棄の姿勢がありあり。これほどいい加減な「戦略」はついぞ見たことがない。政権が変わればすべてご破算という話になるかもしれない。「国民的議論」とはいったい何だったのだろう?
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by greenerworld | 2012-09-16 20:13 | 3.11後の世界  

モニタリングポストの怪

 以前、中日新聞・東京新聞コラムに「不可解な除染」というタイトルで、新聞などで発表されている飯舘村役場(いちばん館前)のモニタリングポスト(MP)の測定値が、周辺より低いことを紹介したが、このMPに限った話ではない。上の写真は6月(帰還困難区域指定前)の長泥コミュニティセンター前のMP。少し離れると8~10マイクロシーベルト/hくらい表示されるところもある。
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 8月13日の蕨平コミュニティセンターのMPの表示は5.534なのに、線量計の表示は6.6だった。10m離れたところでは8前後のところもある。前田中の集会所のMP(写真中)では、1.964に対して2.49、周辺の草原では3.12だった。
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 さて、本日8月16日14時の飯舘村役場の線量率は0.795である。新聞・テレビはこの値を「飯舘村の測定値」として報道している。ちなみに上の値を測定しているいちばん館前のMPには表示器がついていない(写真下)が、少し離れたところでは2マイクロシーベルトくらいある。
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by greenerworld | 2012-08-16 14:25 | 3.11後の世界  

お役所仕事

 7月17日に飯舘村の避難区域が再編され、南部の長泥地区は「帰還困難区域」に指定された。地区に通じる道路は6か所で封鎖され、地区住民以外が勝手に入ることはできなくなった。地区住民が入る時にもカギを開けて入ることになる。ちょうど7月17日の午前零時に閉門された様子を伝えるニュースを見て、何とお役所仕事かと思ったが、もっとあきれる話を今回見てきた。
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 村役場に隣接する「いちばん館」前に、「スクリーニング場」という立て看板があった。そこに待機している人に確かめると、7月17日以降、長泥地区に出入りする人々の放射線スクリーニングをしているのだという。それまでは原則出入りが自由でスクリーニングなど行われていなかったのだ。もっと言えば、昨年の事故以来、長泥地区の住民は恐ろしいほどの汚染の中で、何の情報もなく、普通に暮らしていたのである。もちろんスクリーニングなどなく。

 国道399号を浪江町津島側から長泥地区に向かう。閉門された村境では11〜12マイクロシーベルト/時、しかしその手前には20マイクロを超える場所があり、そこは計画的避難区域のままだから今のところ出入り自由だ。
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 自分たちが暮らしてきた地域が閉鎖された、住民の思いはいかばかりかと考える一方、この線引き自体に違和感を感じる。飯舘村内部でも隣接する地域には長泥地区同様に汚染のひどい場所がある。汚染状況はまだら模様で、行政区で突然変わるわけもない。同心円状の警戒区域分け同様、この新避難区域分けもいかにも杓子定規である。事実、より第一原発に近い蕨平地区は、長泥地区同様帰還困難区域の指定を求めたが、認められなかったという。

 お役所仕事と言ってしまえばそれまでだが、相手は放射能汚染、あまりにもあきれた対応ではないか。
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by greenerworld | 2012-08-16 10:40 | 3.11後の世界  

原子力規制委員会人事に重大な問題

 新たに設置される原子力規制委員会は、国家行政組織法第3条に基づいて設置されるいわゆる三条委員会。国会の同意を得て総理大臣が任命、天皇が認証することになっている。一度その任に就くと総理大臣にも罷免権はない(委員長は5年任期、4人の委員のうち2名は3年、残り2名は2年)。環境省の外局として置かれる原子力規制庁はその事務局になる。規制委員会では、

 ・ 原子力安全規制、核セキュリティ、核不拡散の保障措置、放射線モニタリング、放射性同位元素等の規制を一元化
 ・ (独)原子力安全基盤機構(JNES)を所管(必要となる法制上の措置を速やかに講じて、JNESを原子力規制庁に統合)
 ・ (独)日本原子力研究開発機構(JAEA)及び(独)放射線医学総合研究所の業務の一部を共管

 などを所管し、委員会の下には原子炉安全専門審議会、核燃料安全専門審査会(常設)が置かれ、放射線審議会も置かれる。このように原子力の規制にや安全について強大な権限を持ち、原発の再稼動についての判断はもちろん、放射線の安全基準づくりなどにもきわめて大きな影響力を持つ。また原子力防災会議の副議長(議長は総理大臣)、原子力災害対策副本部長(本部長は総理大臣)も兼任することになる。

 今回の事故でいえば、いまだに原子力緊急事態宣言は解除されていないが、この解除後の事故対策も担うことになる。避難区域の線引きや補償や帰還問題についても大きな影響力を持つことになろう。

 原子力規制委員として国会に提示された案のうち、委員長候補の田中俊一氏は、東北大学卒業後日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構、JAEA)に入所、JAEA副理事長、同特別顧問、原子力委員会委員長代理、などを歴任。原子力委員会就任にあたっては「21世紀社会の様々な課題と不確実性に柔軟に対応し、人類社会と地球環境が希求する技術を生み出す創意に満ちた原子力科学の研究開発活動が行われる政策を企画し、推進します」とコメントするなど、原子力推進の旗振り役だった人物。

 福島第一原発事故後、これまでの原子力推進政策を反省したと言われているが、実際の言動は疑わしい。避難準備中だった飯舘村にいち早く入り、高線量地区の長泥区長宅に押しかけて除染させてくれと依頼。この時元原子力委員長代理などの身分ではなく、NPO放射線安全フォーラム(これも原子力ムラの住民たちの立ち上げた団体)副理事長の名刺を出した。除染を行ったものの効果はさほどなく、除染土の処理に「これだけ広いんだから谷一つくらい埋めればいい」と述べた。区長が除染土の処理をどうするかきいたら「東電に処分してもらえ」と答え、除染土は未だにブルーシートがかけられて区長宅の裏庭に放置されたまま。その後何のフォローもしていない。無責任きわまりない。彼がほしかったのは除線の実績とデータだったのだろう。その時飯舘村は長く高線量のところに放置されたあげく、ようやく計画的避難区域に指定されたところだった。できれば故郷を離れたくないという、わらをもつかむ住民の気持ちを利用しただけで踏みにじったのである。

 本人はその後県内各地で除染を手掛け、JAEAの除染利権獲得に成功、自身は福島県の除染アドバイザーに就任した。飯舘村でも除染アドバイザーやリスクコミュニケーション推進委員に就任、飯舘村の非現実的な「除染して帰還」という復興計画の流れに影響を与えた。また事故後に委員に就任した原子力損害賠償紛争審査会では、自主避難者に対して賠償を出すべきでないと最後まで主張した。

 言わば被曝を心配する住民の避難の権利を認めず、除染ムラという新たな利権集団を築き、「除染して帰還する」という流れを築いた人物と言える。田中氏が心配していたのは、「このままでは原子力が推進できなくなる」ということであり、避難の権利を認めないのは賠償金がふくらむのを防ぐため、除染は数年で戻れる状況をつくるため(戻らない人には賠償はしない)で、反省どころか、彼が事故後やってきたことは原子力の延命にすぎない。原子力開発を規制する組織の長として、全くふさわしくない。

 また、原子力研究開発機構の更田豊志氏、日本アイソトープ協会の中村佳代子氏も規制対象事業者であり、またその人脈も原子力ムラにつながるもので全く不適格。

 担当細野原子力担当相は、国会で「原子力ムラそのものは、一度徹底的になき者にする」と述べながら、出してきた人事案は原子力ムラの復活そのものだ。繰り返すが、いったん国会が同意してしまえば、総理大臣にもやめさせることができない。総理官邸前デモも無力化させてしまう超強力人事なのだ。そして総理大臣が替わろうと、政権が変わろうと、委員長は最低5年間はその任に居続けるのである。
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by greenerworld | 2012-07-27 21:21 | 3.11後の世界  

除染予算だけが粛々と消化される

 7月8日~11日と飯舘村に滞在した。村内でも高線量の小宮地区や長泥地区では農地のモデル除染が続いていた。小宮地区の除染工法は以前よりは効率的に行われているように見えたが、それでも炎天下、防護服を着ての作業は見ているだけで気の毒になる。聞けば熱中症で倒れた作業員もいると聞くが、それもむべなるかな。一人の作業員は宮崎からやってきたといい、伊達市にある旅館から毎日通っているという。元請はゼネコンだが実際の現場作業は、下請の企業が雇った作業員によって行われている。
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 除染された土は黒いフレコンバッグに詰め込まれる。黒い袋はインド製と中国製だった。袋には(たぶん)除染された場所の空間線量率が記されていて、4.0とか7.0と読める。
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 ところがこの除染土の行き先がない。国は除染する方針は出しているものの、最終処分場はおろか中間処分場する決まっていない。各自治体に仮置き場を設けることになっているがこの建設が進まない。その中でモデル除染事業だけは粛々と進められるため、どこかに置かなければならない。飯舘村の場合は、一般廃棄物処分場であるクリアセンターに持ち込まれている。“仮仮置き場”である。クリアセンターに行ってみると大手ゼネコンの差配で運ばれたフレコンバッグをクレーンで何段にも積み上げる作業が進んでいた。
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 豪雨があれば崩れて流れ出すのではないか、この暑さで中の有機物が発酵し発熱したり、メタンが発生したりするのではないかと心配になる。そもそも一般廃棄物処分場は、放射性廃棄物を保管する場所ではないはずだが……。

 除染は表土5cmでよいとされるが、水田ではそうはいかない。この1年3か月の間に伸びた雑草の根も深く食い込んでいる。10cm以上はぎ取らねばなるまい。それでも空間線量(地上1m)は除染した水田の上で、除染されていないところで。確かに下がってはいるのだが、まだ放射線管理区域の基準よりずっと高い。

 だいいちこの先除染が進めばこの何万倍もの除染土が発生する。この膨大な量の除染土を置く場所があるのだろうか?

 先のことは何も決まらないまま予算がついた除染事業だけが進んでいく。除染作業員は全国から集まってきている。炎天下で防護服を着てマスクをして肉体労働をする過酷な作業だ。後先を考えない行き当たりばったり、泥縄の対応が、原子力発電そのものとかぶって見える。
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by greenerworld | 2012-07-27 21:00 | 3.11後の世界