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内村鑑三と足尾鉱毒事件

 明治34年(1901年)4月、キリスト者内村鑑三は、日刊紙『萬朝報』に4回にわたって「鉱毒地巡遊記」を連載する。内村鑑三は4月21日に栃木県の足利で開かれた講演会に招かれ、その足で鉱毒被害地を視察、その被害の深刻さを目の当たりにし、足尾鉱毒事件に関わるようになる。東京に戻ってすぐに書いたのが「巡遊記」である。中でも其四は檄書といってもいいほど、激しさがほとばしっている。

 この年の12月10日、田中正造は足尾鉱毒に苦しむ被害農民のため、明治天皇の乗る馬車に駆け寄り直訴状を渡そうとした。いわゆる天皇直訴事件である。田中正造が釈放された後の12月27日、学生約800人によって、鉱毒被害地学生視察団が組織され、内村を団長として谷中村はじめ渡良瀬川流域の村々を回った。内村は、行った先で「毒塚」(鉱毒の混じった泥を集めて積み上げた塚)の一つに駆け上がり、学生や地元参加者を前に朗々と演説を行ったという。

 ところが、翌年になると内村の鉱毒事件への関与は格段に小さくなる。その理由は詳らかでないが、運動から離れ聖書研究へと没頭していく。

 ともあれ、今から112年前に書かれたこの文章が、福島第一原発事故を経た現在にそのまま通じることに、複雑な思いを抱くことを禁じざるを得ない。われわれは何も学んでいないのか、それともただ歴史は繰り返すものなのか。

 ──「鉱毒地巡遊記」其四(『萬朝報』1901年4月30日)より抜粋(『よろづ短言』警醒社、明治41年版による。旧字を新字に改め、( )に読みを加えたほかは原文ママ)

 世に災害の種類多し、震災の如き、海嘯の如き、洪水の如き、災(わざわい)は災たるに相違なきも、而かも之諦め難きの災にあらず、最も耐え難き災は天の下せし災に非ずして人の為せし災なり、天為的災害は避け得べからず、人為的災害は避け得べし、而して、鉱毒の災害は後者に属し、而かも、其の最も悲惨なる者なり。
 悲しむ者は一府四県の民数十万人なり、喜ぶ者は足尾銅山の所有者一人なり、一人が富まんが為めに万人泣く、之を是れ仁政と言うべき乎。
 余等は被害民の家を訪へり、彼等の額に「絶望」の二字の印せらるるを見たり、民に菜色(*1)ありとは多分彼等の如き者を形容しての言ならん、而して余のイマジネーションは直ちに走て  古川市兵衛氏の自宅に入れり余は日々に積る氏の家産に就て想へり、余は我国の貴族紳商間に於ける氏の広き交際と勢力について想へり、余は故陸奥宗光氏が彼の姻戚なるを思ひ出せり、一人が栄華に誇らんが為めに万人は飢餓に泣かざるを得ざる乎、王政維新の結果は終に茲(ここ)に至りし乎と、斯く思ふて余の頭を擡(もた)げ見れば日光山脈の諸峰は雲霧の裡(うち)に包まれて余と憂愁を分つが如し。
 如何にして悲哀に沈める此民を救はん乎、勢を以て政府に迫らん乎、筆を以て社会に訴えん乎、跪(ひざまづき)て天に祈らん乎、既に七年の長きに渉る民の間断なき哀訴に傾くる耳を有せざる此政府に尚ほ幾回迫るとも何の益あらんや、聞くも信ぜず、信ずるも行はざる此社会は其一部分が萎縮死に就くも何の同情をも寄せざるべし、然らば如何にしてこの民を救はん乎、祈るの外別に途なき乎、唯泣て同情を表するに止まる乎。
 語を寄す、世の宗教家よ、一日の間を窃(ぬす)んで行て被害地を目撃せよ、諸氏は信仰上大に益する所あらん、世の小説家よ、杖を渡良瀬川沿岸に曳き見よ、諸氏は新なる趣向を得て一大悲劇を編むを得ん、詩人よ、農夫の貧と工家の富とを比対し見よ、諸氏の韻文に新たに生気の加えられるを見ん、足尾銅山鉱毒事件は大日本帝国の大汚点なり、之を是れ一地方問題と做(な)す勿れ、是れ実に国家問題なり、然り人類問題なり、国家或いは之が為に亡びん、今や国民挙て目を西方満州の野に注ぐ、我の艨艟(もうどう*2)は皆な悉く其舳(へさき)を彼に対して向く、然れ共何ぞ知らんや敵は彼にあらずして是にあるを、何ぞ初瀬艦(*3)を中禅寺湖に浮べざる、何ぞ朝日艦(*4)をして渡良瀬川に遡らしめざる、而して足尾銅山を前後両面より砲撃せざる、余をして若し総理大臣たらしめば余は斯くなさんものを。

 *1菜色:飢えて血色の悪いこと
 *2艨艟:いくさぶね、戦艦
 *3初瀬:明治期の日本海軍戦艦、日露戦争で沈没
 *4朝日:明治~昭和期の日本海軍戦艦、太平洋戦争初期に沈没

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by greenerworld | 2013-11-15 17:01 | 森羅万象