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「減電」で日本が再生する

(講談社の『本』に掲載したものです。一部加筆修正してあります。)

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 ライン川の支流に削られた谷は思いのほか深く険しい。暗い葉色をしたトウヒやモミの森を縫うつづら折りをレンタカーで上りきると、丘の上には思いがけず雄大な牧草地が広がっていた。そこには森を見下ろす巨人のような風車が五基、間を置いてゆったりと羽根(ブレード)を回転させていた。南斜面に建つ家々や畜舎の屋根には太陽光発電パネルが輝き、軒先にはたくさんの薪が積み上げられていた。

 ドイツ南西部のバーデン-ヴュルテンベルク州フライアムトは、黒い森(シュヴァルツヴァルト)の中にある村だ。二〇一二年五月に、私がこの村を訪れたのは、自然エネルギー導入の進むドイツの中でもとりわけ先進的な地域だと知ったからである。この村では風力発電、太陽光発電、そしてバイオガス(家畜糞尿や食品廃棄物などを原料に発生させた、メタンを中心とする可燃性ガス)発電で、村で使う以上の電気を生み出しているほか、暖房や給湯の燃料は地域で取れる薪や、木々を粉砕したチップでまかなう。その薪やチップは村外にも運ばれている。

 二〇〇〇年にドイツで導入された再生可能エネルギー法(EEG)は、自然エネルギーからの電気を、コストに見合いなおかつ利益の出る価格で買い取ることを電力会社に義務づけた。フライアムト村ではこの制度を活用し、地域住民が組合をつくって、風力発電ビジネスに乗り出した。太陽光発電の方は主に個人が銀行などから融資を受けて設置している。こうして自給自足どころかエネルギーの〝輸出〟を達成、風や太陽、森の恵みが、地域に富をもたらしているのだ。

 黒い森周辺は、春の味覚、軟白アスパラガス(シュパーゲル)の産地である。シュパーゲルの季節になるとレストランには、専用のメニュー「シュパーゲル・カルテ」が置かれる。ゆでたシュパーゲルにオランデーズソースをかけ、ゆでじゃがいもやシュヴァルツヴァルター・シンケン(塩漬け生ハム)を付け合わせるのが当地風だ。肉や湖でとれるマスもカルテにはあるが、こちらも付け合わせの扱い。メインはあくまでシュパーゲルなのである。

 当地はワインが名産でもあり、農業や観光が主要な産業。住民は、秋になると森に入ってキノコ採りやベリー摘みを楽しむ。そのキノコやベリー、マスが食べられなくなってしまったことがある。一九八六年春、旧ソ連チェルノブイリ原発で起きた事故によって放出された放射性物質が、はるか一五〇〇キロメートル離れたこの森に降り注いだのである。

 フライアムトの四〇キロメートルほど南に、シェーナウという小さな町がある。この町に住む母親たちは、チェルノブイリ原発事故に衝撃を受け、汚染地の子どもたちの疎開を受け入れるとともに、原子力のない未来を目指して活動を始めた。

 当時シェーナウの電力供給は一社に独占されていた。彼女たちは、電力会社に節電とともに原子力からの電気供給を行わないよう申し入れる。その申し入れが却下されると、彼女たちは今度は自前の電力会社をつくり、送配電網(グリッド)を買い取って、自ら〝原子力フリー〟の電気を供給することを目指した。

 この企ては無謀と思われたが、議会で僅差で承認され、一九九七年、彼女たちのつくった電力会社──実際には電力供給組合──シェーナウ電力(EWS)がスタートした。その後電力自由化を受けて、EWSはドイツ全土に自然エネルギーで発電された電気を販売するようになった。二〇一二年三月現在顧客数は一三万人に達し、一五年までに一〇〇万人を目指しているという。「世界の果てのようなこの町からドイツ中に電気を売っている」とEWSの広報担当、エヴァさんは胸を張る。

 フライアムトやシェーナウでの成功の背景に、この地域の中心都市フライブルクの存在を忘れるわけにはいくまい。七〇年代初め、フライブルクから三〇キロメートルほど離れたライン河畔のヴィールに、原子力発電所の建設が計画された。反対する農民たちを支援して、フライブルク市民を中心とする三万人もの人々が予定地を占拠し、最終的に計画を撤回へと追い込んだのである。市民たちは、その運動の中でエネルギーについて議論し学び合い、原子力のない未来へ向けて舵を切った。

 フライブルクでは、市民発のさまざまな先進的プロジェクトが活発に繰り広げられている。フライアムトの風力発電事業をプロデュースしたのも、フライブルクに本部を置くNGOだ。

 先進的な環境政策や交通政策の導入で、いまや「環境首都」として名高いフライブルクは、省エネルギー、エネルギー効率化、自然エネルギーを環境・エネルギー政策の三本柱に据えている。建物の断熱などによりまず使う場面でのエネルギー消費を削減し、熱と電気をともに使うコジェネレーション・システムなどの効率的利用技術によりエネルギーをむだなく使い、その上で自然エネルギーで置き換える。すなわち、作り運ぶ場面(インプット)と使う場面(アウトプット)での削減を前提に、エネルギーを適材適所で使おうというものである。こうした考えは、脱原発と気候変動対策を同時に進めようとする地域や国に共通している。

 三・一一後、わが国で繰り返されたのは、原発なしでは日本は深刻なエネルギー不足に陥るという議論であった。もちろん、この議論は前提が間違っている。電気だけがエネルギーではない。石油も石炭もあるし、暖房や調理には薪や炭も使える。太陽の光は電気に変えずに熱として利用すれば三倍も四倍も効率がよい。

 一方、発電所では大量の燃料を燃やしているが、その時発生する熱の半分以上、原子力発電では三分の二は廃熱となって環境中に捨てられているのだ。送電・変電時の損失もあり、われわれの許に届くのは投入されたエネルギーの平均して三分の一程度でしかない。

 わが国全体の最終エネルギー消費量に占める電気の比率は二五パーセント程度だし、家庭で使用されるエネルギーの半分程度だ。それも電気でなくてもよい用途に使われている。たとえば家庭で使うエネルギーの半分から三分の二は、せいぜい五〇℃もあればよい給湯や暖房に使われている。もし発電所で捨てられる熱が利用できるなら、総体のエネルギー投入量を三割程度は減らすことができるだろう。全てを電気に頼らずに熱を熱としてむだなく使うこと、電気と熱をバランスさせることが、脱原発のみならず、気候変動対策や将来のエネルギー枯渇を考えた時、重要な鍵なのである。

 三・一一以降のエネルギー論議に大きな違和感を感じて、私は「節電ではなく減電を、脱原発ではなく脱電気を」と主張してきた。そのためには現在のような大規模集中型の発電システムでなく、地域地域に適正な規模の、熱と電気の両方を使うコジェネレーション・システムを整備していくいく必要がある。風力発電で知られるデンマークだが、供給電力の半分以上はこうした地域にあるコジェネレーション・プラントからのもので、廃熱は温水として地域の暖房や給湯に利用されている。こうした使い方をすればエネルギーは自ずから地産地消に向かう。エネルギーの代金が地域に回り、関連産業も興るというわけだ。エネルギーシステムの変革は社会も経済も活性化させるはずである。
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# by greenerworld | 2014-01-26 12:48 | エネルギー  

東京・羽村市の無暖房住宅を訪問

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 東京都知事選が始まり、脱原発が争点になっている。残念ながら、エネルギーの議論は相変わらず「電気」に偏っている。原発や化石燃料から自然エネルギーへ、という「エネルギーシフト」の前に、エネルギー使用量そのものを減らすという根本のところをきちんと考えなければいけない。

 エネルギーを使わない社会をつくるには、大きく分けて二つのアプローチがある。一つは、総合的なエネルギー効率を高めることで、電気を作るために失っている廃熱を有効利用したり、電気でなくともいいことに電気を使わないこと、である。発電時に投入されるエネルギーの6〜7割は熱として失われている。太陽光やバイオマスも、電気に変えるより熱として使う方がずっと効率がよい。もとよりわれわれが使うエネルギーの半分以上が熱、それも低温の熱なのだ。

 もう一つは使う場面でのエネルギーの大幅な削減である。それには、いわゆる節電や省エネではなく、根本的にエネルギーを使わない構造に転換すること(「行動の省エネ」から「構造の省エネ」へ)が肝心。家庭での冷暖房に使われるエネルギーは大きいが、それをがまんするのではなく、使わなくても快適に過ごす方法がある。これを減らすことは社会のベースエネルギー消費を下げる意味がある。

 1月25日に、東京・羽村市の一級建築士・関口博之さんの、住居兼事務所を見学させていただいた。南側全面がガラス張りのいわゆるパッシブソーラーハウス(機械力を使わずに暖かくまたは涼しく過ごせる家)である。建物の構造は地元産木材を使った伝統構法、壁は自ら塗った土壁、その後少しずつ断熱工事を加えて、昨冬からは真冬でも晴れた日なら一日中(24時間)暖房はいらなくなった。曇りや雨・雪の日は薪ストーブを焚くが、それもわずかですむそうで、庭の木々の剪定枝や建材の端材で間に合ってしまうという。

 この家、特に目新しい素材を使っているわけではない。建物の南面はほぼ全面ガラス。ただし、その一部には内側に土壁がある。日射があたるとこの土壁が温まりって室内に放熱する。ガラスと土壁の間には少しすき間があり、温まった空気は部屋に循環する。いわゆるトロンブウォールと呼ばれる手法だ。また、冬は太陽高度が低いので、居間の奥まで日射しが届く。ちょうどそこに台所との間仕切りとして大谷石が積まれていて、日射はこの大谷石も温める。土壁や大谷石は蓄熱体となり、日が沈んだ後も暖かさを保つのである。

 ただし、いくら熱をためても建物から熱が逃げてしまえば、何もならない。もともと木と土壁で、あまり断熱性はよくなかった家だが、段ボールと梱包用のエアーパッキン(あのプチプチです)、それを障子紙でくるんだ手製の断熱材を屋根裏にはめ込んだり、すき間を塞いだりという手当を少しずつ施していったそうだ。

 この日はあいにく薄曇りだったが、家の中はほんのりと暖かい。放射温度計を当てると、南側の土壁の表面は15.6℃あった。快晴だと40℃くらいまで上がり、輻射熱が熱く感じるそうだ。

 日が沈むと窓の外をアルミを張ったシートを下げて塞ぐ。家の中は折りたたみ式の障子窓を閉める。窓からの熱放射を防ぎ、屋内に熱を保つためだ。

 「今朝7時の外の気温は0℃、室内は13℃ありました」と関口さん。もちろん夜間を通じて暖房はしていない。

 一方夏は庇とブドウ棚で日射を遮り、屋内の気温上昇を防ぐ。温まった空気は上昇するので、屋根裏から高窓を通じて外に抜く。庭に植えた落葉樹は緑陰をつくり、照り返しと外気温の上昇を抑えてくれる。一方、夜間には窓を開けて通風することで土壁や床、大谷石を冷やす。これらの素材は冷えるとともに湿気を吸い込み、気温が上がって湿度が低くなれば湿気を放出して温度が下がる効果がある。外気温が35℃でも室内は30℃に保たれるという。
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 かくして夏冬とも冷暖房に大きなエネルギーを使わずにすみ、電気使用量は平均100kWh/月程度になった。これは一般家庭の3分の1に過ぎない。給湯用には200リットルの太陽熱温水器を設置、その効果で平均LPガス使用量は4〜5㎥/月(一般家庭の半分以下)、トイレで流す水には屋根に降った水をためて使っており、水道使用量も9㎥/月(同3分の1)ですんでいる。これは事務所兼用の住居(5人家族)としては、驚異的に少ないといえる。

 きちんと断熱を施し、太陽光を有効に使うならば、晴れる日の多い関東以西の太平洋側では、ほとんど暖房は不要にできると考えているが、関口邸はそれをまさに実践している。この家では使っていない暖房灯油代も考えると、年間に光熱費20〜25万円ぐらい節約できる計算。設備投資に300万円くらい余分にかかっても、十数年で元が取れる。今後燃料費や電気代が上昇していくことを考えれば、回収期間はもっと短くなるだろう。

 日本でこうしたパッシブ冷暖房が注目され研究されたのはオイルショック後。実験住宅も建設され、取り組む建築家も少なくなかったのだが、その後の逆オイルショック、バブル経済ですっかり「忘れられた技術」になってしまった。今ハウスメーカーが取り組む「エコハウス」は自然の風や冷気、日射を活用するために、センサーや電動ルーバーなどを組み込んだハイテク仕様だ。関口さんが提案するのは「手間がゆとりを生む家」。環境とつながりつつ快適にすむためにはひと手間を惜しまないことが大切だと思う。

 百聞は一見にしかず。2月2日(日)の10時〜16時にも、見学会(オープンハウス)がある。お近くの方は体験してみませんか。終了しました。

 一級建築士事務所・関口建築+生活Lab
 http://blogs.dion.ne.jp/sekiguchi_lablog/
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# by greenerworld | 2014-01-25 19:43 | エネルギー  

明かりを灯すたびに

 東京の離島で「漆黒の闇」というやつを経験したことがある。

 月がないどころか、空は厚い雲に覆われて星明かりもなく、前後左右も上下すらもあやふやになる。いわゆる鼻をつままれてもわからないという暗さだ。その闇の中、オオミズナギドリが海から陸にある巣に戻ってくる、その時の音や声を聴こうという趣向だったと思う。

 視覚に頼れないことを体が納得すると、それ以外の感覚がだんだんととぎすまされてくる。聴覚はもちろん、嗅覚や触覚が敏感になる。空気の中にさまざまな匂いが混じっていることがわかる。皮膚は気温や湿度、わずかな空気の動きを感じ取る。

 ほ乳類の祖先は中生代の闇の中で生き延びてきた。その原初的な記憶がよみがえってくるような体験だった。それにしてもオオミズナギドリは、漆黒の中どうやって自分の巣を見つけるものか、不思議でならなかった。

 九州の離島では、海岸に寝そべって星を眺めた。薄もやのように光る天の川を基準に、アルタイルやベガ、デネブを探す。南の空にはさそり座が長く横たわり、時折流星が視界をかすめた。波音をBGMに星だけを眺めていると、まるで宇宙空間に漂っているような感覚さえした。

 また別の時、沖縄の離島で満月の夜、サンゴのかけらを敷き詰めた小道を歩いた。白い小道にくっきりと人の影が映る。海岸に出るとリーフに波頭が輝いて見えた。砂浜に車座に座って見渡せば人の表情がはっきりとわかった。

 満月の光はどこかあやしげでもある。浮かれ狸が踊り出したり、人狼が変身したりするのもうべなるかな。人もまた然りだ。三線の響きで島歌が始まった。

 東(あーり)から ありゆる うつきのゆ うちなん やいまん てらしょうり
(東の空から上ってくる大きな月の夜 (お月様よ)沖縄も八重山も照らしてください)

 久々に満天の星とその中を貫いてぼうっと光る天の川を見たのは、福島県飯舘村にいたときである。文明の火の暴走のために、全村避難で村民がいなくなり、まわりにはほとんど明かりがなかった。その中で星々はこぼれ落ちんばかりに輝いていた。流れ星がすっと流れ、白い軌跡を残して消えた。

 明かりを一つ一つ灯すたびに、人はどれほどのものを失っただろうか。
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# by greenerworld | 2014-01-04 12:37 | エネルギー  

石油と戦争

明けて2014年は、第一次世界大戦の開始から100年目。
エネルギーを選びなおす』(岩波新書)のドラフトから、使用しなかった一節を。

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 二〇世紀は、戦争の世紀であると言い切ってよいだろう。それもさまざまな近代兵器が発達し、大量殺戮が可能になった時代である。その陰には、石油を始めとする化石エネルギーの存在がある。逆に言えば、近代の戦争は石油なくしては成り立ち得ない。

 第一次大戦(一九一四〜一九一八)では、初めて自動車が人や物資の輸送を担い、兵器として戦車や飛行機や潜水艦が開発された。飛行機のエンジンを製造したのは自動車メーカーだったし、戦車の製造もまた自動車メーカーが担った。そもそも兵器の〝燃費〟はおそろしく悪い。もちろん兵器であろうと燃費が良いに越したことはないが、燃費向上のために戦闘能力を犠牲にするようなことはするはずがない。現代の戦車でも軽油一リットルあたりの走行距離は数百メートルだから、第一次大戦時は推して知るべしである。当時のフランス首相クレマンソーは、アメリカのウィルソン大統領に「石油の一滴はわが兵士の血の一滴に値する」と記した電報を送り、石油の支援を求めた。第二次世界大戦では、同じ言葉を日本が戦争遂行の標語として使った。

 ヒトラーも戦争における石油の重要性がよくわかっていた。ドイツは石油資源に乏しかったが石炭が豊富だったため、石炭をガス化してメタノールや合成ガソリンを製造する技術が開発された。と同時にヒトラーは自動車の大衆化を掲げ、政権についたばかりの三三年二月、ベルリン・モーターショーで「国民のための車(フォルクスワーゲン)」構想をぶち上げた。彼はその開発をダイムラー・ベンツを辞めてフリーだったフェルディナント・ポルシェに託した。自動車を生んだ国にもかかわらず、当時のドイツ自動車産業は遅れており、ドイツメーカーの自動車はいずれも高級車で、一般庶民が買えるようなものではなかった。ヒトラーは国民に対する人気取り策として国民車を構想し、それを走らせる高規格道路=アウトバーンの建設にも乗り出したが、それはもう一方で戦争遂行のためでもあった。

 ポルシェはヒトラーの依頼に応えてプロトタイプを作り、量産に向けて工場も建設されたが、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、工場は戦闘車両や戦車の製造に携わることになり、結局終戦まで一台の車も製造されることはなかった。

 すでに中国大陸で泥沼の戦争を繰り広げていた日本が、一九四一年一二月八日にハワイ・オアフ島の真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突き進んだのにも、石油が深く関わっている。

 そのころアメリカは世界最大の石油生産国であり、輸出国だった。日本にも油田が存在していたがその生産量はわずかに過ぎず、日本の石油の海外依存度は九二%、対米依存度は七五%に達していたのである。航空機のエンジン出力向上に欠かせないオクタン価の高いガソリン精製能力でも、日本はアメリカに大きく劣っていた。

 三七年の日華事変を期に、アメリカは対日制裁を進める。工作機械、石油や高性能な航空機用ガソリンが輸出制限になり、さらに四一年七月には日本の在米資産の全面凍結、八月には石油の全面禁輸が実施された。追い詰められた軍部は、現在のインドネシアやマレーシアの油田を占領し、日本に還送することをめざした。

 開戦前に検討された不利な数字はことごとく無視され、あるいは棚上げされて、開戦しか打開の道はないと軍部は突き進んでいく。真珠湾の奇襲は成功したかに見えたものの、石油備蓄タンクもドックも破壊せずに引き揚げたため、米軍はすぐに体勢を立て直す。日本軍は真珠湾攻撃後ただちにボルネオやスマトラの油田や精油所を制圧するが、陸軍と海軍の対立でまごついているうちに油槽船が次々沈没され、補給ラインが断たれた。南方に派遣された石油技術者の多くも犠牲になり、掘削機械も失われた。燃料不足では、艦船も動けず戦闘機も飛べず、もはや戦いにならなかった。
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# by greenerworld | 2013-12-31 10:05 | エネルギー  

Villagers deprived of their lives and livelihood by the Fukushima nuclear disaster

The following is the summary of my presentation at the International Symposium on 12 Dec. 2013 at Slavic Research Center, Hokkaido University, about the situation of Iitate village after evacuation. Share freely.

Villagers deprived of their lives and livelihood by the Fukushima nuclear disaster
─From the viewpoint of social capital and sustainability

OZAWA, Shoji

IItate village is situated north of Tokyo, and 30-50 km northwest of Fukushima Dai-ichi nuclear power plant (NPP). Its’ key industries are agriculture, stockbeef and dairy farming.

I was involved with the village before the accident as an energy consultant.
The village was focused on the collection of woody biomass and planned to utilize it as a self-sufficient heat source. Until the 1950's villagers had been making charcoal from local trees and shipping it to the city. It was the main business in winter.
In the 1960s' the "fuel revolution" changed life and commerce in the village. As charcoal was no longer used, the villagers lost their source of income, and they began to leave their homes to search for work outside of the village in winter. The population of the village decreased gradually thereafter.

Under the banner of "Madei Life", the villagers determined to create a small but beautiful village in which people could live happily and sustainably. "Madei" means conscientiousness in the local dialect.

Iitate village was heavily contaminated with radioactive substances such as cesium-137 and 134 by the Fukushima Dai-ichi NPP accident, following the Great Tohoku Earthquake and Tsunami, on 11 Mar. 2011.
The main contamination seemingly occurred on 15 Mar. after the 2nd reactor cracked that morning. The northwest wind blew clouds of radioactive substances over the village. It fell to the ground as rain and snow during the night.

The government knew about this but the villagers were not informed of the situation until April. Many villagers continued to stay in their homes after that.
It wasn’t until July that almost all the villagers were finally evacuated.

A recent survey revealed that the villagers were exposed to an initial external dose of 7.0 mili grey per capita on average, with the highest being 23.6.

The population of the village was about 6200 and the number of households was about 1700 before the accident. The number of households almost doubled after evacuation, because the elderly lived in temporary housing, and the younger generation lived in apartments or single houses. Households were divided.

The Tohoku region, the northern part of Japan's main island of Honshu, is often subjected to cold weather in summer. It brings poor harvest and famines. Iitate is no exception. According to records, the population of the village was halved by the great famine in the 18th century.

Some traditional food of Iitate is related to the history of famine. Shimimochi, frozen and dried rice cake is of course a source of emergency provisions as well. Miso, seasoning made of rice, barley and soy beans with salt, is also an emergency food source. Both are now examples of Iitate's local specialties.

Villagers gather Sansai, shoots or young leaves of wild plants in spring, and hunt wild mushrooms in autumn. These were used as substitutes for rice or vegetables in times of famine.

Gathering Sansai and hunting mushrooms have become fun activities for the villagers in recent years.
They gather them not just for themselves, but also to share them with neighbors and relatives, as gifts from nature. Their value is not monetary; rather they serve as social capital to build and lubricate relationships.

Sansai and mushroom experts had been eagerly waiting for the season this year, but they are highly contaminated by radioactive cesium. They cannot be eaten, but TEPCO, the Tokyo Electric Power Company, which operated Fukushima Dai-ichi NPP, will not compensate the villagers for them, because they have no monetary value.

Young villagers are considering leaving the village, while some of the elderly are eager to return. But when they do return home, their lives will not be the same as before. They will have to take care of themselves without the help of the young, buy everything they need thereafter. And contamination of Sansai and mushrooms will last for many years to come.

Lives, livelihood, local culture and communities in harmony with nature were broken.
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# by greenerworld | 2013-12-17 10:58 | 3.11後の世界  

内村鑑三と足尾鉱毒事件

 明治34年(1901年)4月、キリスト者内村鑑三は、日刊紙『萬朝報』に4回にわたって「鉱毒地巡遊記」を連載する。内村鑑三は4月21日に栃木県の足利で開かれた講演会に招かれ、その足で鉱毒被害地を視察、その被害の深刻さを目の当たりにし、足尾鉱毒事件に関わるようになる。東京に戻ってすぐに書いたのが「巡遊記」である。中でも其四は檄書といってもいいほど、激しさがほとばしっている。

 この年の12月10日、田中正造は足尾鉱毒に苦しむ被害農民のため、明治天皇の乗る馬車に駆け寄り直訴状を渡そうとした。いわゆる天皇直訴事件である。田中正造が釈放された後の12月27日、学生約800人によって、鉱毒被害地学生視察団が組織され、内村を団長として谷中村はじめ渡良瀬川流域の村々を回った。内村は、行った先で「毒塚」(鉱毒の混じった泥を集めて積み上げた塚)の一つに駆け上がり、学生や地元参加者を前に朗々と演説を行ったという。

 ところが、翌年になると内村の鉱毒事件への関与は格段に小さくなる。その理由は詳らかでないが、運動から離れ聖書研究へと没頭していく。

 ともあれ、今から112年前に書かれたこの文章が、福島第一原発事故を経た現在にそのまま通じることに、複雑な思いを抱くことを禁じざるを得ない。われわれは何も学んでいないのか、それともただ歴史は繰り返すものなのか。

 ──「鉱毒地巡遊記」其四(『萬朝報』1901年4月30日)より抜粋(『よろづ短言』警醒社、明治41年版による。旧字を新字に改め、( )に読みを加えたほかは原文ママ)

 世に災害の種類多し、震災の如き、海嘯の如き、洪水の如き、災(わざわい)は災たるに相違なきも、而かも之諦め難きの災にあらず、最も耐え難き災は天の下せし災に非ずして人の為せし災なり、天為的災害は避け得べからず、人為的災害は避け得べし、而して、鉱毒の災害は後者に属し、而かも、其の最も悲惨なる者なり。
 悲しむ者は一府四県の民数十万人なり、喜ぶ者は足尾銅山の所有者一人なり、一人が富まんが為めに万人泣く、之を是れ仁政と言うべき乎。
 余等は被害民の家を訪へり、彼等の額に「絶望」の二字の印せらるるを見たり、民に菜色(*1)ありとは多分彼等の如き者を形容しての言ならん、而して余のイマジネーションは直ちに走て  古川市兵衛氏の自宅に入れり余は日々に積る氏の家産に就て想へり、余は我国の貴族紳商間に於ける氏の広き交際と勢力について想へり、余は故陸奥宗光氏が彼の姻戚なるを思ひ出せり、一人が栄華に誇らんが為めに万人は飢餓に泣かざるを得ざる乎、王政維新の結果は終に茲(ここ)に至りし乎と、斯く思ふて余の頭を擡(もた)げ見れば日光山脈の諸峰は雲霧の裡(うち)に包まれて余と憂愁を分つが如し。
 如何にして悲哀に沈める此民を救はん乎、勢を以て政府に迫らん乎、筆を以て社会に訴えん乎、跪(ひざまづき)て天に祈らん乎、既に七年の長きに渉る民の間断なき哀訴に傾くる耳を有せざる此政府に尚ほ幾回迫るとも何の益あらんや、聞くも信ぜず、信ずるも行はざる此社会は其一部分が萎縮死に就くも何の同情をも寄せざるべし、然らば如何にしてこの民を救はん乎、祈るの外別に途なき乎、唯泣て同情を表するに止まる乎。
 語を寄す、世の宗教家よ、一日の間を窃(ぬす)んで行て被害地を目撃せよ、諸氏は信仰上大に益する所あらん、世の小説家よ、杖を渡良瀬川沿岸に曳き見よ、諸氏は新なる趣向を得て一大悲劇を編むを得ん、詩人よ、農夫の貧と工家の富とを比対し見よ、諸氏の韻文に新たに生気の加えられるを見ん、足尾銅山鉱毒事件は大日本帝国の大汚点なり、之を是れ一地方問題と做(な)す勿れ、是れ実に国家問題なり、然り人類問題なり、国家或いは之が為に亡びん、今や国民挙て目を西方満州の野に注ぐ、我の艨艟(もうどう*2)は皆な悉く其舳(へさき)を彼に対して向く、然れ共何ぞ知らんや敵は彼にあらずして是にあるを、何ぞ初瀬艦(*3)を中禅寺湖に浮べざる、何ぞ朝日艦(*4)をして渡良瀬川に遡らしめざる、而して足尾銅山を前後両面より砲撃せざる、余をして若し総理大臣たらしめば余は斯くなさんものを。

 *1菜色:飢えて血色の悪いこと
 *2艨艟:いくさぶね、戦艦
 *3初瀬:明治期の日本海軍戦艦、日露戦争で沈没
 *4朝日:明治~昭和期の日本海軍戦艦、太平洋戦争初期に沈没

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# by greenerworld | 2013-11-15 17:01 | 森羅万象  

アリューシャン列島のホッキョクギツネ激減の原因は?

 アリューシャン列島西部、ロシア領メドヌイ島のホッキョクギツネ亜種が激減している原因は、餌に含まれる水銀による汚染の可能性があるとモスクワ大学の研究者らが報告している。

 同島のホッキョクギツネは海鳥やアザラシの死がいなど、海洋動物にほぼ依存しているという。これらの動物の体内に含まれる水銀が、ホッキョクギツネに何らかの影響(水銀中毒症)をもたらしているかもしれないというのだ。

 水銀の起源は、火山の爆発など天然由来のものが大きいが、最近では化石燃料の燃焼によるものが増えている。たとえば石炭を燃やすと、中に 微量に含まれる水銀蒸気が大気中に放出される。水銀が雨で降り注ぎ、海洋中でメチル態水銀となり、植物プランクトンやベントスに取り込まれ、食物連鎖を通じて濃縮されていく。生態系上位のものほど汚染度が高くなる。ホッキョクギツネはそれを餌にしているのだから、さらに高濃度に汚染されるわけだ。人間でも、海獣類、クジラやイルカ、獣類、マグロなどの海洋生態系の上位にいる動物をよく食べる地域では、体内水銀濃度が高いことがわかっている。

 21世紀に入ってから、中国やインドなどで石炭や重油を燃料にしたボイラー・火力発電が増加している。今後汚染はさらに増すにちがいない。

ソース:http://www.nature.com/news/seafood-diet-killing-arctic-foxes-on-russian-island-1.12953?WT.mc_id=FBK_NatureNews
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# by greenerworld | 2013-05-11 11:20 | 環境汚染  

[BOOK]『世界は貧困を食い物にしている』

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[BOOK]『世界は貧困を食い物にしている』
ヒュー・シンクレア著
朝日新聞出版

 2006年にグラミン銀行とユヌス総裁がノーベル平和賞を受賞し、注目されたマイクロクレジット(マイクロファイナンス)だが、大半のマイクロファイナンス機関(MFI)の実態は、貧困者への高利貸しだという話。貸し付け基準が甘く、融資が貧困者の自立に役立たないどころか、生活費や家電品の購入や別の借金の返済に使われ、不当に高い利子は内部統治のゆるいMFIの現地経営陣や先進国の投資家に吸い上げられていく。さらにそれが、新興国や発展途上国の富の流出を増す結果になる。

 著者はグラミン銀行を批判しているわけではなく、グラミン・モデルは有効だと考えている。それが新しい獲物を求める「金融ビジネス」に乗っ取られてしまったことが問題なのだ。マイクロファイナンス立て直しに関する提案は示唆に富む(少なくとも私には)し、日本でもおそらく有効だ。
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# by greenerworld | 2013-04-24 11:28 | レビュー  

2年目の3月15日

 2年前の3月15日早朝、福島第一原発2号機の格納容器が破壊され、おそらくこの一連の事故で最大の放射性物質が放出されました。前夜から断続的に2号機からの放出は続いており、未明から朝にかけて、いわき、茨城、千葉、そして東京や横浜へと高濃度の放射性プルーム(死の灰の雲)が向かいました。新宿では9時過ぎに、東京日野では10時頃から、線量値が急上昇しました。
しかし、その時間帯に東京は雨が降っていませんでした。風向きは昼になると反転、東南から南の風になり、プルームは北上していきました。新たに放出されたプルームも福島第一から北西に向かいました。そのプルームが飯舘村に届いた頃、夕方から夜に掛けて、福島県の東北部では雨そして雪が降りました。

 プルームが最初南〜南西に向かったということは、その方向に低気圧があったということです。でもあまり発達せず雨にはなりませんでした。その後新潟方面に別の低気圧ができ、それが徐々に発達しながら東進し、そこにプルームが向かいました。もしあの日の午前中、首都圏に雨が降っていれば、現在の風景はおそらくずっと違ったものになっていたでしょう。「ゴーストタウン」になっていたのは、東京だったかもしれません。東京が汚染されなかったのは、ほんの偶然に過ぎません。

 写真は2011年3月15日、23時の福島県の雨雲レーダーです。
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# by greenerworld | 2013-03-15 10:09 | 3.11後の世界  

黄砂の季節です

 黄砂の季節がやってきた。花粉症を引き起こすスギ花粉の大きさが30μmほど(μmは1000分の1mm)なのに対して、黄砂の粒子は平均2〜3μm程度。この小ささゆえに、いったん舞い上がると長く空中に浮遊する。世界には北アフリカ、中央アジア、オーストラリアなどに大きな砂漠・乾燥地帯がある。そこで砂塵嵐(ダストストーム)により巻き上げられた細かい鉱物粒子が上空に達し、低気圧の移動に伴って遠く離れた地域に運ばれる。これらを総称して「風送ダスト」と呼ぶ。大気中に漂う風送ダストの総量は全体で20億トン以上あると言われる。その半分が北アフリカのサハラ起源だ。

 一方、日本にやってくる風送ダストは主にモンゴルや内モンゴルの乾燥地帯が源。ここで巻き上げられた鉱物粒子が、ジェット気流に乗りはるばる日本までやってくる。これを「黄砂」と呼んでいる。もっとも日本には黄砂ばかりでなく、北アフリカや中東起源のダストも届いているようだ。風送ダストは地球規模で移動している。黄砂も遠くハワイや北アメリカまで到達しているという。

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黄砂の発生源と日本(SPRINTERS 大気エアロゾル(微粒子)予測動画2013.3.9より)


 風送ダストは北極や南極、グリーンランドの氷の上にも積もっているので、氷床をボーリングすると過去に積もったダストを採取することができる。これを分析したところ、地球が寒冷化した氷河期にダストが多くなっていることがわかった。氷河期には極地方と赤道地方の温度差が大きくなり、低気圧やジェット気流が強まると同時に乾燥化が進むので、風送ダストの量も増えると考えられている。

 風送ダストは赤外線を吸収する温室効果と太陽光をはね返す作用を併せ持つ。また海に降り注ぐダストは、外洋で不足する鉄分を補給し植物プランクトンの増殖を助ける。植物プランクトンはCO2を固定し、やがて深海に沈降することで、大気中のCO2を取り去り、ゆっくりとではあるがやはり温暖化を緩和する働きがある。一方で雪や氷の上にダストが降り積もれば、雪氷を溶かし太陽光をはね返す力を弱めると同時に、そこに生える地衣類などの栄養となる。ざっと見ただけでも、気候変動に対して実に複雑な作用を及ぼす。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)がこれまで発表してきた気候変動モデルには、風送ダストの影響はまだ十分に反映されているとは言えないそうだ。

 「黄砂アレルギー」という言葉が使われるようになったが、実際に動物実験では風送ダストがアレルギー症状を悪化させるという結果が得られている。微粒子であるダストそのものが免疫系に悪影響があるのに加え、付着しているカビや細菌由来成分がアレルゲンとなると考えられる。またNOx、SOxのような酸性の大気汚染物質がダストと結びついて運ばれることも考えられる。発生源に近い中国北東部や朝鮮半島では地表付近に漂う黄砂の量も多い。韓国では黄砂現象があった期間に65歳以上の高齢者の死亡率が2.2%増加、とくに気管支疾患が原因の死亡率が4.1%高くなったという報告がある。「春の風物詩」とばかりは言っていられない。
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# by greenerworld | 2013-03-09 14:41 | 花鳥風月