新たに設置される原子力規制委員会は、国家行政組織法第3条に基づいて設置されるいわゆる三条委員会。国会の同意を得て総理大臣が任命、天皇が認証することになっている。一度その任に就くと総理大臣にも罷免権はない(委員長は5年任期、4人の委員のうち2名は3年、残り2名は2年)。環境省の外局として置かれる原子力規制庁はその事務局になる。規制委員会では、
・ 原子力安全規制、核セキュリティ、核不拡散の保障措置、放射線モニタリング、放射性同位元素等の規制を一元化
・ (独)原子力安全基盤機構(JNES)を所管(必要となる法制上の措置を速やかに講じて、JNESを原子力規制庁に統合)
・ (独)日本原子力研究開発機構(JAEA)及び(独)放射線医学総合研究所の業務の一部を共管
などを所管し、委員会の下には原子炉安全専門審議会、核燃料安全専門審査会(常設)が置かれ、放射線審議会も置かれる。このように原子力の規制にや安全について強大な権限を持ち、原発の再稼動についての判断はもちろん、放射線の安全基準づくりなどにもきわめて大きな影響力を持つ。また原子力防災会議の副議長(議長は総理大臣)、原子力災害対策副本部長(本部長は総理大臣)も兼任することになる。
今回の事故でいえば、いまだに原子力緊急事態宣言は解除されていないが、この解除後の事故対策も担うことになる。避難区域の線引きや補償や帰還問題についても大きな影響力を持つことになろう。
原子力規制委員として国会に提示された案のうち、委員長候補の田中俊一氏は、東北大学卒業後日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構、JAEA)に入所、JAEA副理事長、同特別顧問、原子力委員会委員長代理、などを歴任。原子力委員会就任にあたっては「21世紀社会の様々な課題と不確実性に柔軟に対応し、人類社会と地球環境が希求する技術を生み出す創意に満ちた原子力科学の研究開発活動が行われる政策を企画し、推進します」とコメントするなど、原子力推進の旗振り役だった人物。
福島第一原発事故後、これまでの原子力推進政策を反省したと言われているが、実際の言動は疑わしい。避難準備中だった飯舘村にいち早く入り、高線量地区の長泥区長宅に押しかけて除染させてくれと依頼。この時元原子力委員長代理などの身分ではなく、NPO放射線安全フォーラム(これも原子力ムラの住民たちの立ち上げた団体)副理事長の名刺を出した。除染を行ったものの効果はさほどなく、除染土の処理に「これだけ広いんだから谷一つくらい埋めればいい」と述べた。区長が除染土の処理をどうするかきいたら「東電に処分してもらえ」と答え、除染土は未だにブルーシートがかけられて区長宅の裏庭に放置されたまま。その後何のフォローもしていない。無責任きわまりない。彼がほしかったのは除線の実績とデータだったのだろう。その時飯舘村は長く高線量のところに放置されたあげく、ようやく計画的避難区域に指定されたところだった。できれば故郷を離れたくないという、わらをもつかむ住民の気持ちを利用しただけで踏みにじったのである。
本人はその後県内各地で除染を手掛け、JAEAの除染利権獲得に成功、自身は福島県の除染アドバイザーに就任した。飯舘村でも除染アドバイザーやリスクコミュニケーション推進委員に就任、飯舘村の非現実的な「除染して帰還」という復興計画の流れに影響を与えた。また事故後に委員に就任した原子力損害賠償紛争審査会では、自主避難者に対して賠償を出すべきでないと最後まで主張した。
言わば被曝を心配する住民の避難の権利を認めず、除染ムラという新たな利権集団を築き、「除染して帰還する」という流れを築いた人物と言える。田中氏が心配していたのは、「このままでは原子力が推進できなくなる」ということであり、避難の権利を認めないのは賠償金がふくらむのを防ぐため、除染は数年で戻れる状況をつくるため(戻らない人には賠償はしない)で、反省どころか、彼が事故後やってきたことは原子力の延命にすぎない。原子力開発を規制する組織の長として、全くふさわしくない。
また、原子力研究開発機構の更田豊志氏、日本アイソトープ協会の中村佳代子氏も規制対象事業者であり、またその人脈も原子力ムラにつながるもので全く不適格。
担当細野原子力担当相は、国会で「原子力ムラそのものは、一度徹底的になき者にする」と述べながら、出してきた人事案は原子力ムラの復活そのものだ。繰り返すが、いったん国会が同意してしまえば、総理大臣にもやめさせることができない。総理官邸前デモも無力化させてしまう超強力人事なのだ。そして総理大臣が替わろうと、政権が変わろうと、委員長は最低5年間はその任に居続けるのである。