石油と戦争
2013年 12月 31日
『エネルギーを選びなおす』(岩波新書)のドラフトから、使用しなかった一節を。
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二〇世紀は、戦争の世紀であると言い切ってよいだろう。それもさまざまな近代兵器が発達し、大量殺戮が可能になった時代である。その陰には、石油を始めとする化石エネルギーの存在がある。逆に言えば、近代の戦争は石油なくしては成り立ち得ない。
第一次大戦(一九一四〜一九一八)では、初めて自動車が人や物資の輸送を担い、兵器として戦車や飛行機や潜水艦が開発された。飛行機のエンジンを製造したのは自動車メーカーだったし、戦車の製造もまた自動車メーカーが担った。そもそも兵器の〝燃費〟はおそろしく悪い。もちろん兵器であろうと燃費が良いに越したことはないが、燃費向上のために戦闘能力を犠牲にするようなことはするはずがない。現代の戦車でも軽油一リットルあたりの走行距離は数百メートルだから、第一次大戦時は推して知るべしである。当時のフランス首相クレマンソーは、アメリカのウィルソン大統領に「石油の一滴はわが兵士の血の一滴に値する」と記した電報を送り、石油の支援を求めた。第二次世界大戦では、同じ言葉を日本が戦争遂行の標語として使った。
ヒトラーも戦争における石油の重要性がよくわかっていた。ドイツは石油資源に乏しかったが石炭が豊富だったため、石炭をガス化してメタノールや合成ガソリンを製造する技術が開発された。と同時にヒトラーは自動車の大衆化を掲げ、政権についたばかりの三三年二月、ベルリン・モーターショーで「国民のための車(フォルクスワーゲン)」構想をぶち上げた。彼はその開発をダイムラー・ベンツを辞めてフリーだったフェルディナント・ポルシェに託した。自動車を生んだ国にもかかわらず、当時のドイツ自動車産業は遅れており、ドイツメーカーの自動車はいずれも高級車で、一般庶民が買えるようなものではなかった。ヒトラーは国民に対する人気取り策として国民車を構想し、それを走らせる高規格道路=アウトバーンの建設にも乗り出したが、それはもう一方で戦争遂行のためでもあった。
ポルシェはヒトラーの依頼に応えてプロトタイプを作り、量産に向けて工場も建設されたが、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、工場は戦闘車両や戦車の製造に携わることになり、結局終戦まで一台の車も製造されることはなかった。
すでに中国大陸で泥沼の戦争を繰り広げていた日本が、一九四一年一二月八日にハワイ・オアフ島の真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突き進んだのにも、石油が深く関わっている。
そのころアメリカは世界最大の石油生産国であり、輸出国だった。日本にも油田が存在していたがその生産量はわずかに過ぎず、日本の石油の海外依存度は九二%、対米依存度は七五%に達していたのである。航空機のエンジン出力向上に欠かせないオクタン価の高いガソリン精製能力でも、日本はアメリカに大きく劣っていた。
三七年の日華事変を期に、アメリカは対日制裁を進める。工作機械、石油や高性能な航空機用ガソリンが輸出制限になり、さらに四一年七月には日本の在米資産の全面凍結、八月には石油の全面禁輸が実施された。追い詰められた軍部は、現在のインドネシアやマレーシアの油田を占領し、日本に還送することをめざした。
開戦前に検討された不利な数字はことごとく無視され、あるいは棚上げされて、開戦しか打開の道はないと軍部は突き進んでいく。真珠湾の奇襲は成功したかに見えたものの、石油備蓄タンクもドックも破壊せずに引き揚げたため、米軍はすぐに体勢を立て直す。日本軍は真珠湾攻撃後ただちにボルネオやスマトラの油田や精油所を制圧するが、陸軍と海軍の対立でまごついているうちに油槽船が次々沈没され、補給ラインが断たれた。南方に派遣された石油技術者の多くも犠牲になり、掘削機械も失われた。燃料不足では、艦船も動けず戦闘機も飛べず、もはや戦いにならなかった。
by greenerworld | 2013-12-31 10:05 | エネルギー