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もし2060年の日本が100人の村だったら

 今日は敬老の日。国立人口問題・社会保障研究所の推計(2012)による2060年のニッポン、人口は8674万人、65歳以上の高齢化率は約4割、0〜14歳の年少人口比率は9.1、平均年齢は52歳となる。つまり、かつてなら「人生50年」といわれた50歳になっても、まだ平均より若いのだ。死亡率は千人あたり17.7人で、同出生率は5.6人。従属人口指数(働き手の数で養われる人=高齢者と年少者の数を割った指数)は92.7である(いずれも出生・死亡とも中位仮定)。
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 2060年の予測人口ピラミッドを見ると、重心が大きく上(高齢側)に偏っていることが一目瞭然。女性の80代にピークがあるが、これは団塊ジュニア(第二次ベビーブーム)世代。50代後半から60代前半に小さな山が見えるのはその子供(団塊世代の孫)世代。

 もしニッポンが100人の村だったら、40人が高齢者、9人が年少者、51人が働き手でほぼ1人が1人を養っている。40人くらいがひとり暮らしで、30人くらいは役場の近くに住んでいる。毎年2人くらい亡くなる一方で、赤ちゃんは2年に1度くらいしか生まれない。その結果、人口は10年後には78人に減り、2100年には57人に……。

 

 そんな世界が44年後に待っている。もちろん、ブログ氏は生きてないが、わが息子たちはこんな世界で老後を迎えていることになる。


# by greenerworld | 2016-09-19 13:24 | 森羅万象  

全村避難から5年目を迎えた飯舘村

 5年前の福島第一原発事故で、一部を除いて30キロ圏外でありながら、大きな放射能汚染を受けてしまった福島県飯舘村。3月15日に2号機から大量に放出された放射性物質は低く漂いながら北西に向かい、折から降った雨や雪にたたき落とされて約6200人が暮らす豊かな土地を高濃度に汚染した。そればかりか村民は「30キロ圏外」ということで長く留め置かれることになった。ブログ氏が京都大学原子炉実験所の今中哲二助教らと村に調査に入ったのは、3月28・29日だったが、専門家の今中氏らが驚愕するほどの汚染の中で普通に暮らしている人がいたことが、さらなる驚きだった。

 深刻な汚染を明らかにしたその調査報告が公表されたあと、4月11日にようやく国は「計画的避難区域」という形で避難準備をするよう村に通告した。実際に計画的避難区域に指定されたのは4月下旬、避難が完了したのは仮設住宅が完成する夏になってからである。40代以下の世代は先にアパートなどを探して避難し、仮設住宅に移ったのはその親の世代が多かった。事故前の飯舘村では三世代、四世代がともに暮らす大家族が多かったが、約1700だった世帯数は避難後3100以上に増え、家族はバラバラになった。

 それから5年、仮設住宅にはポツリポツリと空き部屋が目に付くようになった。帰村の思いが叶わぬまま亡くなった人も少なくない。一方で、新たな住まいを見つけて住み替えた人もいる。日大の糸長研究室の最近の調査では、約4分の1が村外に住宅を取得したと推計している。避難生活が長引く中、故郷を離れることを決意したその胸中はいかばかりだろうか。
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 帰還に向けた大規模な除染作業は終盤に差しかかっている。最盛期は村民を上回る7000人ともいわれる除染作業員が村に入り、村内に通じる県道12号線は朝晩渋滞した。住居とその周りの除染はほぼ完了し、農地の除染が続く。それでも、放射線量の低減率はせいぜい半分程度、4分の3を占める山林の汚染は手つかずだ。汚染土を詰めた大量のフレコンバッグは「仮仮置き場」に積み上げられ、たまに帰宅する村民を圧倒する。除染土は大熊・双葉両町に建設が予定されている「中間貯蔵施設」に持ち込まれるはずだが、その用地取得は遅々として進まず完成はいつになるかわからない。一時保管場所である村内の仮置き場も不足し、このままでは「仮仮置き場」に延々と置き続けられるのではと危ぶまれる。「あの黒い山を見るたびげんなりする」と村民は言う。フレコンバッグの耐用年数は公称5年、もうかなり傷んでいることだろう。

 国は来春、帰還困難区域の長泥地区を除く村内の避難指示を解除する予定だ。村も最近になって、避難指示解除の要望書を国に提出した。それに合わせて村の復興準備は急ピッチで進む。しかしそれは「ハコモノ」中心で、果たして本当に復興に資するものなのか、その維持管理が村の将来を圧迫しないか心配でならない。村では昨年村外にある仮設の村立幼稚園・小中学校を、17年4月から村内で再開する計画を発表した。しかし保護者らの再開延長を求める声は大きかった。それに対して村は頑として聞き入れなかったが、3月になって再開の一年延長を発表した。しかしその理由は、「(現在の飯舘中学校に集約する)改修が間に合わないため」というもので、保護者の声に配慮したという言葉はなかった。

 再開したとしても、アンケートからは村に帰還して子どもを学校に通わせるという保護者はごくわずかである。今回の学校再開に関する村の対応は、むしろ保護者や子どもたちの心を村から遠ざける結果になったのではないだろうか。

 15年暮れに行われた復興庁のアンケートでは、将来的な希望も含め帰村意思のある村民は32.8%いるが、避難指示解除で先行する川内村や楢葉町の例を考えれば、避難指示解除後しばらくは村に戻る人はわずかだろう。しかもアンケートの回答率は5割に満たず、回答者の79%は50歳以上である。アンケートに答えていない若い世代のことを考えると、帰村意志のある村民の比率はもっと低くなるだろう。その一方で、賠償が打ち切られれば村に帰らざるを得ない村民も少なくない。その多くは高齢者だが、彼らが帰るところはかつての飯舘村ではない。家族とも離れ、隣近所にも人影が少ない。子どもの声もしない。買い物も通院もままならないのである。「棄民」という言葉が頭の中に響いて離れない。

# by greenerworld | 2016-04-23 16:42 | 3.11後の世界  

この震災で川内原発を止めないこの国の狂気

 2014年8月18日付日本経済新聞(Web版)に「原発事故時の住民避難『九州新幹線活用を』 薩摩川内市長」という見出しの記事があり、中に次のような一節がある。

 「鹿児島県薩摩川内市の岩切秀雄市長は18日の記者会見で、九州電力川内原子力発電所(同市)で再稼働後に重大事故が発生した場合、住民避難のために九州新幹線を利用できるよう、九州旅客鉄道(JR九州)に、鹿児島県と共同で協定締結を申し入れる考えを明らかにした。

 市長は「住民を大量に速く(安全な場所に)運べるというメリットがある」と強調した。(後略)」

 九州電力川内原子力発電所(川内原発)の地元、薩摩川内市の岩切市長は原発推進派で12年4月の市長選挙で再選された。川内原発は、13年に原子力規制庁に新規制基準に適合していると認められ、15年8月に1号機が、同9月に2号機が、新基準下で初めて再稼働した。

 その8カ月後の16年4月14日夜、熊本県中部を強い地震が襲った。さらに16日未明には本震と見られるマグニチュード7.3の地震が起きた。この地震で48名が犠牲になり(4月20日現在)、多くの人が住家を失い避難生活を余儀なくされている。その中で亡くなられた方もいる。まことに痛ましい。

 最初の地震により、九州新幹線の回送車両が熊本駅近くで脱線した。高架橋や防音壁の亀裂、崩落なども150か所以上見つかった。レールの異常や枕木の破壊もあった。地震のあった区間での運転再開までは相当な時間を必要としそうだ。もし、川内原発で事故が発生していれば、新幹線で逃げることも敵わなかったわけである。新幹線ばかりか、九州自動車道もあちこちで道路の亀裂や崩壊、跨線橋の崩落が起こって通行止めだ。いずれも事故につながらなかったのがせめてもの幸いであった。

 もちろん一般道も亀裂が入ったり崩落したり、瓦礫が道路をふさいだりして通行できない場所がたくさんある。今回の熊本地震では、あらためて、震災による交通インフラの寸断が明らかになった。その中で原発が事故を起こす複合災害となれば、新幹線で避難どころか、立てた避難計画そのものが画に描いた餅になろう。地震で家屋は損傷を受けたうえ余震が頻発すれば、屋内退避もできず、放射能から身を守ることもできない。

 もし平時の事故であっても、30km圏外の住民が避難せずに自宅に留まるという想定がそもそも甘すぎる。福島原発事故では放射能が数百km離れた首都圏や長野県、静岡県にまで到達した。高濃度に汚染されて計画的避難区域に指定された飯舘村は、ほとんどが30km圏外だ。それを知っている以上、事故が起きたら30km圏外でも、たとえ100km離れていても、我れ先に避難を始めるだろう。そのために渋滞が発生し、肝心の30km圏内の住民は身動きが取れなくなる。そのために憲法を改正して、戒厳令を発令できるようにしようというのだろうか。

 震災と原発事故が重なる複合災害が、どれほどの二次被害を地域住民にもたらすか、われわれは東日本大震災で大きな犠牲とともに学んだはずである。それを無視するかのように、いやまるでなかったかのように、原発の再稼働に突き進むのは、いったいなぜなのか。

 熊本地震の震源となった2つの活断層で余震域が広がる中、その断層の先にある川内原発は稼働したままである。少なくとも余震が収まるまで運転停止を求める声が高まる中、原子力規制委員会の田中俊一委員長は、「不確実性があることも踏まえて評価しており、想定外の事故が起きるとは判断していない」(4月18日・NHKニュース)と述べ、運転停止を否定した。さらに、4月20日には、運転開始から40年を超えた関西電力高浜原子力発電所1号機、2号機の安全対策に関する申請に、新規制基準下で初めて許可を与えた。原発の運転期間は40年が原則だが、このままでは例外が原則になりそうだ。

 田中委員長は、福島第一原発事故後に「除染して住民を帰還させる」という流れをつくった人物の一人だ。彼は事故後にNPO法人放射線安全フォーラム副理事長という身分で福島県飯舘村に入り、中途半端な除染実験を行って除染土は「谷ひとつ埋めればいい」と言い放った。その後原子力委員会で除染の必要性を訴えている。このとき「この状況のままで今後の原子力の再生は絶望的だ。とにかく何らかのかたちで除染をきちっと行い避難住民が帰ってこられる状況を作り出さない限りはこれからの原子力発電政策はどう進めていいかわからない」と発言している。つまり、除染は原子力産業の延命のために行うのだという話である。「住民が復帰して生活できる条件は、年間被曝線量が20mSv以下になること」と述べていることにも注目してほしい。

 これらの言動を見る限り、少なくとも田中委員長は原子力を3.11前に戻したいと考えている側の人間である。それが原子力を「規制」する側のトップの座に座っているのだ。

 避難に新幹線を使えばいいと馬鹿げたことを平然と述べた薩摩川内市長といい、再稼動後に「免震重要棟」の新設計画を撤回した九州電力といい、そもそも震災と原発事故を舐めている。そして原子力利権がこの国にいかに深く根づいているかを、そして彼らがそれをおいそれと手放すつもりがないことを、あらためて思わざるを得ない。これではいつかまたフクシマは繰り返されるだろう。


# by greenerworld | 2016-04-22 09:09 | 3.11後の世界  

電力自由化の陰に見え隠れする原発と大手電力会社の延命

 今回の「電力小売全面自由化」は、単に家庭部門までの電力小売事業が開放されるに留まらず、これまで既存大手電力会社の一部門であった送配電部門が分離されることが大きな改革点だ。その部分に焦点を当てつつ、いくつかの問題を指摘したい。
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 発電から送配電、小売に至る「垂直統合型」の事業形態をもち、地域を分けて事業の独占が認められていた、これまでのいわゆる九電力体制から、九五年にまず発電部門が自由化され、小売部門も二〇〇〇年以降大口から自由化が進められてきた。しかし、送配電部門を既存電力会社が握っているため、電気の配送料である託送料金の設定や電力の受け入れに関しては既存電力側の思惑で決められ、自由な競争を妨げているという批判が絶えなかった。今回は五年後をめどに送配電部門の法的分離を義務づけたうえで、発電部門と小売部門には原則として自由な参入が認められるようになった。既存電力会社も新規参入事業者(新電力)も同じ条件で、託送料金を送配電会社に払い、発電した電気を送り、売ることができる。

 ただ、送配電部門は「別会社」になるだけで、九電力それぞれのグループ内にそのまま留まる。そして送配電部門に関しては地域独占と総括原価方式が維持されることになった。東京電力は四月から既に法的分離を先取りしたかたちで組織改編を行い、送配電部門を「東京電力パワーグリッド」として持株会社「東京電力ホールディングス」の傘下に置いた。他の電力会社もいずれ同様の対応を取ると思われる。東京電力は火力発電部門と小売部門も別会社とした一方、原子力発電部門は福島第一原発事故に伴う賠償・廃炉・復興推進部門とともに持株会社の一部門とした。

 東京電力パワーグリッドはかたちの上では別会社でも、利益は持株会社に合算される一〇〇%子会社、しかも使用済み燃料処理費の一部と、原発の立地対策費や推進PRに使われる電源開発促進税がこの託送料金に上乗せされて全需要家から電力使用量に応じて徴収される。将来的には廃炉費用もここに加わるかもしれない。どこから電気を買おうと原発関連費用がついて回る。

 さらに自由化は既存電力会社を原発再稼働へと向かわせている。稼働開始から四〇年超の老朽原発は原則として廃炉にする「四〇年ルール」も、原子力規制委員会が認めれば延長できる例外規定で骨抜きになった。安全対策を施して稼働延長しても採算の取れない、出力の小さい原発は廃炉を決定するが、大型原発は最大二〇年延長させてめいっぱい稼ぐ目論見だ。一方で燃料費の安い石炭火力の建設計画も目白押しで、自由化による料金値下げ圧力は、なんのことはない原発とCO2排出量の多い石炭への回帰に繋がっているのである。

 その反面、再生可能エネルギーは固定価格買取制度の改定で導入が頭打ち。供給に限りがあり再生可能エネルギーの電気を選びたくとも選べない状況にある。電力を自前で調達できない新電力は卸電力取引所から電力を供給するが、卸取引所に供給余力のあるのも当面は既存電力会社だけ。新電力を選んだつもりが中身は既存電力会社だったということも。

 来年四月には都市ガスの小売全面自由化も控える。送配電分離同様、東京、名古屋、大阪の三大都市圏で「ガス導管分離」も行われる。東京電力、中部電力、関西電力は都市ガスの原料であるLNG(液化天然ガス)輸入の上位を占め、LNG基地も持ち、すでに自由化されている大口部門に参入ずみ。電力自由化のみならず都市ガスを含むエネルギー自由化とそれに伴う業界の再編の中で、大手電力会社を総合エネルギー企業として生き残らせようというのが、経済産業省の思惑なのだろう。

# by greenerworld | 2016-04-16 19:01 | 環境エネルギー政策  

映画『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』

古居みずえ監督作品『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』
5月7日よりポレポレ東中野でロードショー。以後、横浜、名古屋、大阪で公開。上映時間95分
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 2011年3月の福島原発事故による放射能で汚染され、計画的避難区域に指定された飯舘村。村民は周辺地域や県外へ避難してちりぢりになり、不自由な避難生活ももう5年になります。
そんな中で、佐須地区のご近所同士、菅野栄子さんと菅野芳子さんは、伊達市内の仮設住宅でも隣室同士。

 栄子さんは、村ではご主人とともに米や野菜づくりと酪農を営んできました。伝統食の凍み餅や凍み豆腐、そして地区の女性たちとともに味噌の製造販売にも取り組んできました。

 酪農は70歳で「卒業」し、震災・原発事故の前年にはご主人とお姑さんを相次いで亡くします。栄子さんは事故の年の夏、伊達市内にできた仮設住宅に避難しましたが、原発事故前一緒に暮らしていた息子さんは早くに避難したため別々の避難先に。息子さんは避難後に結婚、お孫さんも生まれましたが、本来なら「内孫」として面倒を見ていたはずなのに、写真を眺めるだけの日々。

 芳子さんは、埼玉県の息子さんのところにご両親とともに避難しましたが、ご両親はその夏に、避難先で相次いで他界してしまいます。芳子さんは慣れない都会にいるよりはと、飯舘村に近い栄子さんのいる仮設住宅にひとりで引っ越してきました。そしてふたりで、仮設住宅の近所に畑を借り、村にいたときと同じように、野菜を作り始めました。支援者とともに味噌づくりや凍み餅づくりも再開します。

 お彼岸やお盆といった節目には、軽トラックを運転して、仮設住宅から飯舘村のわが家に向かう栄子さんたち。しかし荒れ放題の農地、除染廃棄物の黒いフレコンバッグの山を見て、心が塞ぎます。除染が済めば国は避難指示を解除するつもりですが、山林には放射能が残ったまま。若者も子どもたちも戻ってこず、かつての村には戻りません。村に帰ってたとしても、それぞれが大きな家に独り暮らし。何より放射能に汚染されてしまった村に帰ることにためらいがあります。いったいこれからどうしたらいいのか、ふたりの心は揺れ、千々に乱れます。

 そんな日々の中で芳子さんが病に倒れます。栄子さんは動揺して、なかなか御見舞いに行くことができません。ようやく決心して、芳子さんの入院する病院へ向かう栄子さん……。
原発事故のもたらした理不尽さに対するやるせなさと怒りを押し込めて、ふたりの明るい笑い声が全編に響きます。「笑ってねえどやってらんねえ」
ぜひ、多くの方に観ていただきたいと思います。

『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』公式ページ

# by greenerworld | 2016-04-16 18:44 | レビュー